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出口治明さん「脳出血を経て、僕の何が変わったか」ルポ 読書百景 #5

100人いれば100通りあるはずの読書のかたち——この連載は、ノンフィクション作家・稲泉連氏が、インタビューによってそれを描き出す試みです。(撮影 黒石あみ)
◆目指せインタビュー100人! 本稿で、5/100達成!

「3日が大学、3日がリハビリ、毎日1冊は本を読む」

  立命館大学アジア太平洋大学(APU)の前学長の出口治明さんが、脳出血を発症したのは2021年1月のことだった。滞在中だった福岡のホテルで発作を起こして病院に搬送され、命に別状こそなかったが、右半身の強い運動麻痺と失語症の症状が残った。その後、APUへの復職を目指してのリハビリの様子は、自著である『復活への底力』で詳細に語られている。

 そのなかに、強く印象に残った場面がある。出口さんはリハビリ病院で身体の機能の回復を目指す中で、専門家による理学療法の他に自主的に文字を書く練習を始める。その際に使用したのが、ポプラ社の「えんぴつで」シリーズ。『万葉集』や『論語』、そして『枕草子』……といった古典文学をなぞり書きできるものだ。出口さんは左手で一冊分のなぞり書きを終える度に、家族に連絡して新しい一冊を送ってもらったそうである。

〈単に古典文学を読むだけではなく、文字を一つひとつたどりながらその内容を味わえるのがよいところで、なかなか外出できない入院生活の癒しにもなりました〉

 私は読売新聞の読書委員をしていた2016年からの2年間、同じく読書委員だった出口さんと月に2度の委員会でご一緒させていただく機会を持った。国内外の歴史書を書評で取り上げることの多かった出口さんの留まることを知らない知識の厚み、そして、長大な本を丁寧に読み込んで書かれた評にいつも尊敬の念を抱いていた。

 これまで自著の中でも多くの古典を紹介し、人生における「読書」の価値を出口さんは伝え続けてきた。そのため、病に倒れた後のリハビリでも、身体機能の回復とともに真っ先に「古典」を一文字ずつなぞり書き、どんな状況に置かれても読書の喜びを人生のかてにしていったというそのエピソードに、文字通り「本」を愛してやまない出口さんらしさを強く感じたのだった。

 そして、出口さんは過酷なリハビリの後、APUの学長への復帰を果たした。大分県別府市にあるキャンパスの学長室を訪れた際、失語症でほとんど言葉が出てこない中で、新しく作られる「サステイナビリティ観光学部」への思いを伝える姿も印象に残っている。

 2023年にAPUの学長を退いた後も、出口さんは学長特命補佐として今も車いすで週に3度、APUの東京事務所に出勤して仕事をしている。「3日が大学、3日がリハビリ、毎日1冊は本を読んで過ごしている」という。

声を根気よく絞り出し、粘り強く言葉を発していく

 その日、APUの東京事務所を訪れると、出口さんは私と同行する編集者をにこやかに迎えてくれた。失語症の症状で言葉での意思疎通は今も困難が伴うとはいえ、声を根気よく絞り出し、意思が伝わるまで粘り強く言葉を発していく。手元にフェルトペンとボードを置き、筆談も交えながらのインタビューである。

 さて、出口さんは前述の通り、稀代の読書家として知られる人だ。子供の頃から本が好きで、これまでにいったいどれだけの読書を積み重ねてきたかは計り知れない。日本生命に勤務していた時期、ライフネット生命を起業した頃、そして、APUの学長になってからも週に5冊ほどは本を読んでいた。〈就寝前に1時間本を読むことは、歯磨きをするのと同じくらい、当たり前の習慣〉(『本の「使い方」』)だったそうだ。

 そんな彼が病を得たいま、どのように「読書」をしているのか。それが取材のテーマだった。

「76」と書き、「5000」と続ける

 そもそも出口さんの「読書」についての考え方は明快だ。

 人生において「教養」を身に付けるためのキーワードは「人、本、旅」——。人に会い、旅をして、本を読む。とりわけ何百年、何千年という歳月の中で読み継がれてきた古典を読むことは、最も効率的に教養を得られる行為だと出口さんは語ってきた。加えて「古典」や「歴史」を出口さんが重視していたのは、本というものが「過去」をさかのぼってどんな歴史上の古人とも対話ができるツールであるからだ。

 古代ギリシャの哲学者、ローマ帝国の政治家、近代の思想家やアメリカの大統領。そうした人々に直接会って話を聞くことはできないが、本であればどんな古人の思考にも触れることができる。

 だからこそ、出口さんは本を読むとき、次のように姿勢を正しているという。

〈読書は、僕にとっては大切な時間ですから、本を読むときは、マキアヴェッリのごとく「よし! いまから本を読むぞ」と気合いを入れて読んでいます。読書は著者との一対一の対話です。しかも立派な人と対話をするのです〉(同前)

 出口さんは〈本は「人」と同じ〉と続ける。読書は著者との対話であり、一文と丁寧に接しながら、その言葉に聞き入るようにする。〈これから、ホメロスと対話するぞ〉〈これから、アリストテレスに勝負を挑むぞ〉と集中し、じっくりと著者と相対することが、出口さんが続けてきた読書の風景なのだった。
「76年」
 と、出口さんは言った。それから手元のボードにやはり「76」と書き、その後に「5000」という数字を書いた。
「76年の人生で、5000年の歴史を読める、ということですか?」
「はい。それが、読書のいいところです」

筆談を交えながらのインタビュー

 では、脳出血の発作を起こした後、出口さんと「読書」の関係はどのように変わったのだろうか。その問いに対して、出口さんは「何も変わりません」と答えた。
 出口さんは倒れた2021年1月、病院のベッドで意識が戻ると、身体の右側が思い通りに動かせず、失語症にもなっていた。

 だが、自身の置かれたその状況を、「3秒で受け入れた」と出口さんは言うのだった。

 このとき病気に対する受容を手助けしたのも、これまでに読んできた読書の蓄積が背景にあった、という。

 とりわけその人生観の土台となったのが、ダーウィンの『種の起源』だ。

「僕はこの本を20代の頃に読みました。それから、3回読んで卒業しました」

 同書から受けた影響について、出口さんは『復活への底力』の中でこう書いている。

〈人間は川の流れに身を任せてたゆたうということしかできない。
 ダーウィニストの僕は、以前からそう考えてきました。川の流れに身を委ねているうちに、僕はライフネット生命保険会社の創業を経てAPUの学長に就任し、日々の仕事と生活を送るなかで脳出血を発症し、身体と言葉の障害が残りました〉

 何が起こるか分からない人生において、不運や不幸を嘆いても意味がない。「人生とは何か」と自問自答することなく、自分の身体に残った障害を事実としてありのままに受け入れ、これまでと同じように変化に適応していけばよい——。

 そのように語る出口さんが脳出血の発症後、リハビリを続ける中で「読書」を再び始めたのは、3か月程が経った頃のことだったという。
「最初は寝てばかりいました。本を読むことも以前より遅くなりました」
 それでも再び歴史書を手元に引き寄せて読むうち、少しずつ以前と同様の読書の習慣を出口さんは取り戻していく。今は読書量がほとんど元に戻った。

「僕は本屋を愛しています」

 APU東京事務所にある自身の部屋の本棚には、歴史書を中心に大量の本が並べられていた。

「最近はどんな本を?」
「『アッシリア 人類最古の帝国』が、面白かったです」

 古代西アジアを統一した人類史上最古の帝国であるアッシリアが、どのようにして誕生して反映したのか。そして、その繁栄からわずか100年ほどで滅亡した理由を、B.C.600〜B.C.2000年の歴史をたどることで明らかにしようとした一冊だ。

 出口さんの現在の読書のスタイルは、以前と全く変わらない。まずは書店に行って本を探し、気になった作品を買い求めて「紙の本」で読む。「読書百景」編集部の狙いとしては、病を得てどのように読書スタイルが変わったのかを伺うことだったようだが、傍にいる編集者が想像していたような言葉はほとんど返ってこない。

 ネット書店は使わないし、電子書籍やオーディオブックも利用していない。いまもAPUの東京事務所からほど近い丸善に行き、読みたい本をよく探しており、筑摩書房から今年6月に出版された『アッシリア 人類最古の帝国』も、そのようにして書店で買い求めたものだという。

 いま、日本全国では書店が減り続けており、書店のない自治体も増えている。車椅子での生活ではなおさらネット書店の利用が便利なのでは——そう聞くと出口さんは言った。

「街から本屋さんが減っていくのは、運命です」
 でも——と出口さんは続けた。

「僕はこれまで、ずっとそうしてきました」
「だから、これからも同じように本屋さんに行く?」
「はい」

 それから、出口さんは一呼吸おいてから言った。

「僕は本屋を愛しています」

 書店に行って紙の本を買い、姿勢を正して本と対峙し、一文たりとも読み飛ばさずに著者と真剣に「対話」をするように読む。

 出版業界や書店など「本」をとりまく変化は激しい。だが、「読書」に向かう出口さんのあり様は今も昔も決して変わらないのだった。そこには読書をめぐる一つの風景の、ある眩しさのようなものを感じた。

APUの自室にて

出口治明 でぐち はるあき
1948年、三重県生まれ。立命館アジア太平洋大学(APU)名誉教授・学長特命補佐。ライフネット生命保険株式会社創業者。著書多数。最新刊は『人類5000年史Ⅵ 1901年~2050年』(ちくま新書)。

◎筆者プロフィール
いないずみ・れん/1979年、東京都生まれ。早稲田大学第二文学部卒業。2005年に『ぼくもいくさに征くのだけれど 竹内浩三の詩と死』で第36回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。主な著書に『復興の書店』『「本をつくる」という仕事』『サーカスの子』など。最新作に『パラリンピックと日本人』。

撮影 藤岡雅樹

次回は、9月下旬の公開を予定しています。
#1 和波孝禧さん「聴く、触る、そして全身で見る」はこちらから。
#2 清水純一さん「19歳で読書と出会い直すまで」はこちらから。
#3 佐木理人さん「村上春樹と大江健三郎は実写が浮かぶ」はこちらから。
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