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野口あや子「とりあえずride on してこのままgo on」天才歌人、ラップ沼で溺れ死ぬ #2

10代後半にして歌人デビューし、順調に短歌界でキャリアを築いていた筆者が、あろうことか30代後半にして、ラップに目覚め、フィメールラッパー歌人という荒野を拓いていく物語です。毎号、オリジナルの短歌とリリックを発表します!(#1はこちらから)


◆今月の一首

Awich のtype beat に声を乗せくずし字のごとく声をくねらせ


 九月、私は中部国際空港にうずくまっていた。久しぶりの遠出。しかもいきなりの飛行機。しばらくは男性の声も怖くてちょっとした外出さえままならなかったというのに、急にAwichの歌詞に出てきた「うるまの煙草」を吸うために沖縄? しかも行くといっても沖縄でAwichのライブがあるわけでもない。しかもそのあと沖縄に興味を持って調べまくったせいで、勢い余ってスキューバダイビングの体験まで予約してしまった。キャリーケースを杖のようにしてうずくまり、らふてー、そーきそば、うみぶどう、と呟く。それでも元気が出ず、イヤホンを耳に押し込むと、またAwichとA N A R C H Yの『やっちまいな』を再生する。急にスイッチが入ったように体は動きだし、A N Aのカウンターに向かうと荷物を預け、勢いでチェックインを済ませると、保安検査場を抜け、またイヤホンをつける。まるで精神安定剤のようだ。H I P H O Pが精神安定剤とはずいぶんストロング、ふつふつと力が湧いてくる。搭乗口の近くのベンチに腰掛けると、iTunesのJapanese HIPHOPのチャプターを開き、次々に再生する。そうしている間に搭乗口は開き、飛行機に乗っていざ沖縄へ。海なし県の岐阜に生まれた私にとって海は不思議な存在だ。そんな海の上空を横切って、一気に南の国、沖縄に到着。

 ホテルにチェックインすると早速、コンビニに行ってうるまの煙草を手に入れ、喫煙室で火を灯す。ほとんど葉巻のような、ナチュラルでガツンとした煙草だ。こんな強いタバコを吸ったら今日は寝られそうにないなと一本きりにする。なんといっても明日はスキューバダイビング体験が入っている。うるまの煙草を灰皿に押し付けると、喫煙室をあとにする。

「え、送迎つかないんですか!?」

 翌日のモーニングビュッフェ。スキューバダイビングの送迎バスの連絡がまだこないなと不審に思ってスキューバの会社に連絡し、つい大勢の観光客の中で大声を上げる。

「はい、送迎は三日前までのお伺いとさせていただいております」

「じゃ、じゃあ、会場まで今からタクシーで参りまっす!」

 そのままウエイターに手をあげ、まだソーキそばが入っている口で、「すみません、タクシー呼んでください! 急ぎで! ごめんなさい!」と言うと、食後のコーヒーを一気飲みし、ビュッフェ会場の人波を逆走する。すぐに用意されたタクシーにスキューバダイビング体験の会場名を言うと、鞄の中の水着とタオルと財布とスマホを確認する、なんとか大丈夫そうだ。無事会場に着くと、体験の受付では身長体重と共にウェットスーツのサイズを確認し、スタッフの男性は私の体をじっと見る。その視線に少しの嫌悪感を感じる。べったりと重いウェットスーツを当て、これでは大きいかもなと次のウエットスーツを当てる。べた。その感触に、もう忘れたはずの性暴力の感触がわずかに思い出される。不安が残ったまま、船は出発した。

「こっちへは一人で、ですか?」

 胸にターコイズのネックレスをつけた水着姿の眉の濃い青年がビーチサンダルさえ足取りがおぼつかない私に声をかける。歳はおそらく二十代半ば、インストラクターだろう。なかなかのイケメンだ。

「はい」

「いいですね! なんでも聞いてくださいね」

「……はい!」

 爽やかな笑顔に現金にも胸が高鳴る。性暴力があったとはいえ、どうやらイケメンにときめく感受性は残っていたらしい。船はほどよいシュノーケリングの地点に着き、ゴーグルとマウスピースをしてぱちゃぱちゃと泳ぎながら海面を覗く。海底は鮮やかなサンゴやさかなに満ちていて、解放感で心はどこまでも和んだ。でもこのあと待っているのは深く潜るダイビングだ。そんなこと、できるだろうか。大抵の参加者がカップルや友達同士というペアの中、たった一人で参加の私はインストラクターとマンツーマンで潜るらしい。さっきのターコイズのネックレスのイケメンが、じゃあ、行きましょう、濡れた指先で私の濡れた髪をゴーグルから抜いて水が入らないようにする。そして私の腰を何気なく掴むと、重しをつけたロープを辿って海へ下ろしていく。海底にもわずかな流れがあり、それにあらがいそうになるたび溺れかけて、そのたび、インストラクターの手が私の腰に、胸に、足に触れる。不思議と嫌悪感はなかった。深くは知らない男性に身をゆだねて海に潜る、よく考えればとんでもなくリスキーで、非日常すぎるからだろうか。それともやっぱり、イケメンぶりに好印象を抱いたからだろうか。

 インストラクターはいいですね、という感じに身振り手振りをすると、ウミヘビを捕まえて私に見せる。びっくりして海底でふわふわと拍手する。するとインストラクターはおもむろにマウスピースを外し、口呼吸でドーナツ型の泡を作って見せた。野生のイケメン、かっこいい……。またふわふわと拍手する。ある程度泳ぐと彼はここまで、という合図を見せ、また遠慮なく私の腰や胸に触れながら方向転換をすると重しのついたロープのところまで連れていき、私の手を引いて海面まで上がっていった。

「あ、血が出てますよ」

 イケメンインストラクターはそう言って私の鼻を指さした。触れてみると鼻水に混ざって血がにじんでいる。恥ずかしい。そう思いながら船の水場で顔を洗う。

「うん、取れた。よかった」

 イケメンインストラクターは笑った。

セックスよりセックスや!

——あんなん、もうセックスや!

ホテルに帰ると、私は早速親友にLINEした。

——知らない男と海底でいちゃいちゃして、あんなんセックスよりセックスや!

「どうしたあや子、今どこ」

——今沖縄で! スキューバダイビングした帰り。イケメンインストラクターと二人きりで海潜った。最の高!

「それは最の高!  私なら泊まってるホテル誘っちゃう」

——そこまではさすがにしないW

「いーなーいーな、沖縄のイケメン! 楽しんできてねー」

 LINEが途切れ、ホテルのベッドに横たわる。奮発して予約したハイアットリージェンシーのベッドはふかふかすぎて、一日目は逆に眠れなかったくらいだ。相変わらずふかふかのベッドに横たわると、興奮冷めやらない頭でXのタイムラインをスクロールする。でも、今の興奮と贅沢な時間をポストするのは躊躇ためらわれた。かといってこんなど平日に、勤め人の親しい友人に「今沖縄にいるんだ」なんて言うのもいかにも配慮がない。部屋の間接照明を暗くし、さらにタイムラインをスクロールし続ける。でも今日の興奮を超えるようなポストにはとても出会えない。そんななか、「GRAVITY」というモノクロに手書き風の広告が光った。「やさしいS N S」。その言葉と、音声アプリというところに惹かれて、広告を開く。課金タイプのS N Sでないことを確認すると、指はインストールのアイコンを押していた。インストールが終わると、一通りのセットアップが始まり、適当に名前とプロフィールを入力する。ホーム画面はフォロワーゼロ、フォローゼロ、相互フォローはもちろんゼロだ。でも今日から何か新しいことを始めるのは愉快な気持ちだった。そう思うといくつかの音声ルームを覗き見て、おしゃべりしている人の声に安心感を覚える。気がつくと、私は眠りについていた。

「はじめまして」

——はじめまして、よろしくお願いします

「今日は作業ですか」

——はい、沖縄帰りなので、まきいれていきます!

「いいですね! 沖縄っていうとやっぱ那覇ですか?」

——はい、那覇だけなんで次はもっとあちこち行きたいです

「いいですねー、石垣もいいですよ!」

——おおー、それは考えになかったW

「あ、ちょっと待ってくださいね、郵便物来たみたいですー」

——はい、どーぞー

 帰宅してからはずっと日課のように、インストールした「GRAVITY」の作業ルームでchatしながら原稿をタイピングしていくようになった。「GRAVITY」もずいぶん使い慣れた。主に使うルームは作業ルーム(できればB G Mつき)、あるいは今勉強中の英会話ルーム。そんななか、たまには眠れない夜も訪れる。大抵仕事のことを考えすぎているか、あるいは過去がフラッシュバックして、悶々とするときだ。そんな時も「GRAVITY」を開くけれど、大抵ネガティブ全開の愚痴ルームや、寝落ち通話ルームと、退屈なルームばかりでルーム徘徊だけで疲れてしまう。

そして「不眠の民」へ

——深夜の「GRAVITY」はろくなことがないな。そう思った夜、ふとあるルームが光った。タイトルは「不眠の民」。シンプルなタイトルが気持ちいい、そう思いながら、配信者を目で追うと、男性アイコンなことに気後れする。入室者も配信者以外誰もいない。入ろうか。これがいわゆる「出会い厨」の部屋だったらどうしよう。でもまあ、顔の見えない相手だ、合わなかったら抜ければいい、そう気持ちを切り替えて入室すると、ざああ、という、車が行き交う音が聞こえ、カチ、とジッポの音が聞こえた。

「あ、こんばんは」

——こんばんは

「遅くまで起きてますね」

——はい、眠れなくて

「俺も最近、全然寝れないんですよね」

——同じくです。気温とか気圧かなあ

「ですよねーあーー渋谷人多かったなー」

——渋谷、ですか

「ちょっとラップしてて」

——ああ、もしかしてサイファーですか!

「え、知ってるの? え、なんで」

——レッドブルの最近見てて

「あー、まああれで一気に流行はやったからなあ、でもちょっと珍しいっすね。誰が好きですか」

 そう言われて、一息つく。誰が好きか。この質問の答えで私のヒップホッププロフィールが変わってしまうと何処どこかで無意識に計算していた。

——TOKONA-Xが入り口です。そこから鎮座ドープネスとか、ANARCHYとか、やっぱりフィメールだとAwichです

「へええ、ゴツい。トコナなんてゴリゴリじゃないですか」

——名古屋なんで縁を感じて

「え、昔からクラブとかしょっちゅう出入りしてた感じ?」

——いえ、そんな、まさかまさかW

「え、じゃあ何、マニアックなガチ勢とか?」

——いや、実はフリーでライターしてて、H I P H O Pも最初は本で知って

 嘘ではない。『現代詩手帖』で都築響一がH I P H O Pのことを話していたのを短歌雑誌の時評に取り上げたのがH I P H O Pへの最初の入り口だ。でも、こういう時、説明が面倒くさくてついライターと名乗ってしまう。歌人というといろいろ厄介だし、個人情報を特定されたらと思うと、つい当たり障りない肩書きを名乗るのが「GRAVITY」での基本になっていた。

「へえ、フリーランスってこと?  僕とおんなじですね」

——実はH I P H O Pもリリックも書いてみたりしててW

「え、すご」

 そこからそのルーム主のNさんとは眠れない夜、いろんな話をした。H I P H O Pの話から好きなファッションの話、それから彼の海外生活の話まで。そしてそのうち、私はNさんに自分の素性を明かすようになった。歌人を生業なりわいにしていること、と言っても高学歴・高教養とは程遠く、小学校中学校とずっと不登校で、その後摂食障害になり、なんとか入った通信制高校時代、ふらっと入った短歌結社の鍛錬で「短歌研究新人賞」と受賞し、その経歴でギリギリA O入試で大学に行けたこと。「ファッキンファッカー」のリリックも送ろうと思ったが、「GRAVITY」のメッセージ機能には文字数制限があり、とても送れなかった。

ふらふらでyo yo!

「ねー、あやねえもラップやりましょうよ」

 ある日、またNさんと音声ルームで話していると、彼は痺れを切らしたように言った。

 彼はいつのまにか私のことをあやねえと呼ぶようになった。思えばかなりストイックに見えて、そんなお茶目なところも気が合ったのだろう。

「あやねえのその詩? いや短歌だっけ? ちょっと忘れたけどその日本のバックグラウンドとか、あやねえの経歴でしかやれないラップありますって」

——えええ!?

「で、まずはサイファーやりましょうよ、GRAVITYで俺もやってるし」

——いやいやいや

「こういうのは慣れてけばいいんで」

——あー、ああ、まあ、機会があれば

 機会があれば、というのは逃げのつもりだった。でも、翌日の夜、すぐスマホにルームの通知がきた。大須観音のバーで飲んで家まで歩いて帰っていた途中、ふらついた足取りで「GRAVITY」を開くと、そこには「サイファールーム」とあった。ルーム主はNさんだ。イヤホンをつけて入室すると、ビート音と共に、三人の声が聞こえる。

「よっしゃあああ! あやねえきた」

「あ、知り合い?」

「あやねえ! サイファールーム作ったからー、マイク上がってきてー」

 どうやらNさんは思い切り私の「機会があれば」を信じてルームを開いたらしい。しばらく、音声を聞いている。歩きながら聞いていると歩道とはいえ危ないわ、音声が耳に入ってこないわで、伏見の白川公園のエントランスに腰を下ろした。落ち着いて聞いていると、マイクに上がった三人が順番にラップをしているのがわかる。それも即興で。何が何だかわからない。台本があるわけでもなさそうだ。でも皆、すらすらとラップしている。

「あやねえ!」

 スマホの画面に「マイクをわたそうとしています」というポップアップが現れる。受け取るか、受け取らないか。そもそも、夜中で人通りが少ないとはいえ、こんなところでラップしようものなら不審者そのものだ。でも、指は「うけとる」を押していた。とは言っても、皆が何を言っているのかイヤホンではうまく聞き取れないし、元々したたか酔っている。次は私の番だ。でも、どこから音に入ればいいかわからない。

「……なんか入ってきた、ラップ初めてで、お酒も飲んでる、私公園にいる」

 音乗りも何もあったもんじゃない。とりあえず、言葉を吐いてみる。

「何してんだろう、私、一人、公園で、なんでこんな、わからない」

 そう言ってる間に、次の人のターンになったらしい、リズミカルで太い男性の声で、次の声が聞こえる、でも声の内容はほとんど聞こえない。次に可愛くもたくましい女性の声、次にNさんの声だ。Nさんの声が止まり、また私のターンだということがわかる。でもまるで言葉もリズムも無茶苦茶だ。

「公園で、女の子二人組がこっちみてるのに、ラップしてる、絶対怪しい、酔っ払ってるし音聞こえない、一人で公園でラップしてるのなんで?」

 と、今度は音が余ってしまった。しばらく無音があり、次の男性の声で 

「yoyoー!  音余ってるけどじゃあいただくぜ」

 とだけ聞こえ、ラップが始まる。私のはラップでもなんでもない。ただの野外の酔っ払いの独り言だ。こう思いながらもビートに乗りながら控えめに体を揺らし、道敷みちしきにステップを踏む。と言ってもH I P H O Pのダンスなんかではなく、昔習っていたクラシックバレエ。もう無茶苦茶だ。でも、とんでもなく楽しい。

「また誰かこっちみてる ワイン飲んで、一人だし、もう帰らないといけないし、声相変わらず聞こえないし、でも楽しい、みんなめちゃくちゃうまい」

 酩酊しているせいか、音と声と踊っているような気持ちだった。そうして何ターンも交わしたあと、Nさんのゲストにいた二人は「俺らもうこの辺で」と言ってマイクを降りた。

「あ、私も、マイク降ります!」

「じゃあこの辺でお開きですねーありがとうございましたー、また枠開いてください」

「いえいえー開いて良かったです、楽しかったです」

「ではー」

「あ、ではでは!」

 マイクを降りると、マイクにはNさんだけが残る。リスナーも私一人だ。しばらくイヤホンをつけていると、またビートが流れ始めた。まだ熱気覚めやらぬのだろう、Nさんがゆっくりめのビートでラップを始める。それを歩きながら聴く。だんだん酔いが覚めてはっきり聞こえるようになると、Nさんが何度もラップのバースの中に「you said, alone」をパンチラインのように入れているのが聞こえた。私が何度も「一人で」と言っていたことへのアンサーだろう。一人のラッパーが、私のためにフリースタイルラップをしてくれている。いや、今日で私ももうラッパーかも?  まだ若干ふらついた足でアパートに着くと、酔いの残った頭のままyo yo!  と玄関で叫んだ。

「あやねえ、今日もやる気?」

——はい!

「ザキもトットも?」

「おう!」

「すっかりハマっちゃったなあ、しょうがないかあ、やるかあ」

「ひゅうー!」

——ありがとうございますー!

「もうーみんなやりたがりさんなんだからー」

「GRAVITY」のNさんの部屋でラップをし始めて一ヶ月くらいだろうか。いくつかのラップルームでラッパーの友達を作り、ときに自分でラップ部屋を開いて一人でラップを楽しんだりした。すっかり恥ずかしさはなくなって、下手なことは百も承知、だから何? くらいのメンタルでいた。「GRAVIT」で女性のラッパーは珍しいのか、下ネタをふかっけられたり、30代はババアといわれたりもしたけれど、そのたび「男の下ネタ? そんなんぬるいわ、女の下ネタはもっとえげつねえぞ、女子会でシェアされるお前らの性癖 会っていい人そうって笑ってるけど、てめえのサイズ知ってるからな」「ババアかあ、ババアねえ、いわれても別に傷つかないな J K最高ババア乙って言ってるのはハンバーガーかポテチ食いまくって、美味い懐石知らないみたいな話」と韻はふめないなりに応酬はできるようになった。

「男女でやると、どうしてもああいう下ネタとか女ディスりになるんですか?」

「いや、サイファーは会話だしディスカッションだから」とNさんは言う。

「有意義でハイレベルなメンバーでやらないと」

「だからあやねえの返しは効いてましたよ」

成れの果てが就業しないポエットの私

「わかった、あやこさんの場合、リアルサイファーに行くことだ!」

「GRAVITY」で出会った友達、OさんはそうZOOM越しに言った。OさんはI T事業の自営業者かつウェブデザインにも携わる人で、「GRAVITY」で出会ってZOOMで初めて顔を合わせ、新しく作るホームページの相談に乗ってもらっているところだった。その合間に年上の自営業者としてキャリアの相談をしていたところ、Oさんは唐突にそう言う。

「だって朗読も本格的にしてたんですよね。演劇もしていたっていってたし、舞台度胸は完全にあるわけじゃないですか。あとほら、ああいうラッパーってコラボ好きそうだし」

「でもそういうの都内しかないんじゃ……」

「何言ってるんですか、名古屋はH I P H O Pの聖地ですよ」

「え、じゃあ、行きます」

 そうして私は「名古屋 サイファー」でS N Sを検索し、「伏見サイファー」というグループがヒットした。S N Sの画像がウェルカムな雰囲気をかもし出していること、毎週末行われていること、主宰のアカウントがどこか中性的で、H I P H O Pにありがちなマッチョな雰囲気がないのが心に残った。早速、今週末の土曜に行こうと直感的に決めると、土曜までをまたオンラインサイファーで過ごした。

 その土曜日、私はさかえの広場のど真ん中をうろうろしていた。伏見サイファーの活動場所は名古屋の栄。テレビ塔前とあるけれどテレビ塔前に行ってもそれらしき人はどこにもいない。若いストリートファッションに身を包んだ男性に、「あの。伏見サイファーですか」と聞いて、思い切り引かれることを2、3回繰り返す。とうのたった女性のナンパまがいと思われたのかもしれない。そのうち、スマホの電池が危うくなりはじめ、名古屋地下街のカフェ・ド・クリエに入って充電をしながら、主宰のXのアカウントに「今来たんですがどこにいらっしゃいますか」と何度かメッセージを送る。伏見サイファーの開催時間は6時までと書いてある。もう終了時間だ。諦めよう、そう思って帰ろうとした時、主宰のアカウントから「サイファーに夢中になっていて気がつきませんでした! 挨拶だけさせてください!」とメッセージが来る。指定の場所に行くと、小雨まじりの中、その人は立っていた。端整な顔立ちの中に親しみやすさを感じさせる、その人はハルさんと言った。そこでどんな話をしたか、あまり覚えがない。でも、短歌でポエトリーリーディングをしていると言うと、「じゃあ、〇〇とか好きですか」と知らないラッパーの名前を挙げる。でもラップは好きでもH I P H O P業界にはにわかすぎて聞いたこともなかった。「でも嬉しいです。興味持ってくれて」ハルさんは言う。さっと挨拶をするとすぐ別れ、伏見サイファーのラインオープンチャットを見て明日もサイファーがあることを知る。私はすぐ、明日も行こうと決めていた。帰りの道すがら、またリリックが生まれる。

雨の中さすらい ただよい まだ会えないdawg
「でも嬉しいです」それだけでよい
胸の高鳴りは雨とともにまたたく 
雨の中またたくさんの人の瞬きが溢れてる

異色の経歴? いじめの経験? 
食えなかった全然? でもここで結びつくペイン

流行りのラッパーは知らん ごめんな 自分のことで頭いっぱいなんだ
言いたいことは別にないがビートと勢いには乗るんだ 
周りガヤガヤうるさいな、これは幻聴か?

やりたいことしかやらないラッパーたち
やりたいことしかやれなかった図書館育ち
成れの果てが就業しないポエットの私

できないと決めたからできないやつら 悪いな
私にはできないけれどって指くわえてるやつら さがりな

まずは握ろうとするペンとM I C
そこから始まろうとしているモノガタリ

とりあえずride on してこのままgo on

 翌日、私もう迷うことなく伏見サイファーの現場にたどり着いた。「ああ、来てくれたんですね」とハルさんはにこっと笑い、その他二人のラッパーがアンプとマイクを持って次々バースを蹴っていた。「参加します?」と言われ、ビビって「見学してます」と答える。でも本当はラップしたくてたまらない。しばらく聞いていると我慢できなくなり「参加してもいいですか?」と申し出る。ありがたいことにマイクを回してくれ、つたないながらもサイファーに混ざる。初のリアルサイファーだ。8ビートがまだ数えられず、何度もビートを余らせてしまったけれど、なんとか沈黙にならないように気を付ける。それでもビートの最初に入るのは苦手でうまく入れない。そんな時は三人がうまく助けてくれる。時間が経ち、サイファーの時間が終わろうとしていた。ビートが止まると、三人は黙ってスマホをいじり始める。ラッパーと言うと今までパーティーピープルのイメージがあったけれど、ビートが止まると大人しいを通り越してシャイすぎるくらいだ。このあと、三人でどこか行くのかもしれない。そう思って「じゃあ、失礼します」と言って現場をあとにする。なんだか表現を覚えたというより、新たなスポーツをはじめたようなストイックさを感じる。気づけば栄から自宅の丸の内まで、歩いて帰ってしまっていた。

 まるでランナーズハイの気分。帰ると足の靴ずれがその激しい気分の高揚を教えていた。

#3に続く(12月末に更新予定です)

◎プロフィール

撮影 三品鐘

のぐち・あやこ/1987年岐阜県生まれ、名古屋市在住。2006年、「カシスドロップ」にて短歌研究新人賞受賞。2010年、第一歌集『くびすじの欠片』にて現代歌人協会賞を最年少受賞。ほか歌集『夏にふれる』『かなしき玩具譚』『眠れる海』。岐阜新聞にて月一エッセイ「身にあまるものたちへ」連載中。