野口あや子「ファッキンファッカー」天才歌人、ラップ沼で溺れ死ぬ #1
◆今月の一首
女のくせに歌人なのにと言うやつらバイブスぶち上げかましますわよ
野口あや子
蒸し暑い夏の金曜日、京都のロームシアターで蹴鞠と雅楽と和歌の披講が行われる和歌の名門「冷泉家」の七夕の舞台「乞巧奠」の幕間、私は猛烈にある単語をGoogleでサーチしていた。最初は「京都 金曜 サイファー」。それでも出てこず、少し範囲を広げて「関西 金曜 サイファー」。一見ヒットしたけれどこれは……違う。あの有名な梅田サイファーのライブイベントだ。定期的に行われていそうな、もうちょっと野良っぽい、地元に密着したやつ。調べたところ京都駅のサイファーは木曜日らしく、一日早く京都入りしていたらと思うと悔しくてたまらない。つい舌打ちをする、黒いワンピースにパールのネックレスとハイヒールで着飾った私を、隣の貴婦人が不思議そうに見る。……どうやら、今日、金曜日は大阪のある地域でしかサイファーが行われていないらしい。大阪までは一時間以上。行くか、行かないか。そう考えている間にも一日京都観光した体は重く、披講が終わったら早く宿に戻ってゆっくりお湯に浸かりたいと叫んでいる。でも心は……早くラップがしたいと言っている。
三十七歳、歌人。十九歳で短歌研究新人賞を受賞し、歌集は四冊、歌人としてはそこそこ真面目にキャリアを積んできた。そんな私が急にラップ沼に遭遇し、こうして大事な和歌の披講の幕間にもラップをしたくてスマホに指を震わせているのを知る人は誰もいないだろう。
「あや子さんをラッパーにさせる計画だから」
かつて付き合っていた元恋人は付き合う前、周りの友人に何度もそう吹聴していた。「させる」という、私に主体性がないような言い切り方に違和感を覚えながらも、付き合ってしまったのは私の心の弱さと寂しさからだったのだろう。とはいってもそんな違和感から始まった恋愛がスムーズにいくはずもなく、私は彼に過度に期待し依存しては幻滅するような言動を繰り返していたし、彼もまたこんなはずでは、と思いながらその場しのぎの愛情表現を繰り返していたように思う。それでも関係がだらだらと続いたのは、やはり私が寂しかったし、暇だったからだろう。恋愛は私の一つの依存対象みたいなもので、人生に恋愛は欠かせないものという感覚でいたし、恋人のパーソナリティーよりも今の恋人にいなくなられるという状態の方が恐ろしかった。
そんな悪循環を絶ったのは、元恋人の性暴力だった。性暴力、というものを法的に立証しようとするなら、立件されないかもしれない。元々、知り合いからの性暴力を立件するのは難しい。ただ、性暴力専門の相談センターに相談すると、それは性暴力だと言われ、友人に話すと、それは明らかにおかしい行為、一発退場だと眉をひそめられた。
「なんであんなことしたの」と恋人に訴えても「人と人は許し合うものでしょう!?」「あや子さんにもそういうことを受ける要因はあったじゃん!?」と言いくるめられ、その野太い声と迫力に逆に泣いて謝り、その居直った態度が別れる決定打になった。
恋愛が人生に欠かせないはずの私が性暴力を受けた。その事実は耐え難く、およそ半年ほどを寝込んで過ごした。なんとか原稿とレクチャーはこなし、だけどドラマでも日常でもニュースでもそこで性の匂いを嗅ぎつけると急にめまいがして、涙が止まらない日々。
ワンストップセンターも、またさまざまな窓口も結局治癒の役に立たず、逆に生半可な励ましに傷口をえぐられ、またなんとか相手を罰せないかと弁護士事務所に行っても、これは難しい、と言われるどころか、なんで付き合っていたのにその日だけ性暴力なの? とセカンドレイプに遭う始末だった。
「もう、悪口言っちゃいなよ!」
ここしばらくの私の不調でたびたび名古屋のアパートに来てくれていた母親が言った。
「お母さんもあんたが若いときはセクハラとか理解なくてあんたを傷つけたと思うけど、もうわかった、あんた悪くないから。もう、自分の傷を自分で無理に癒そうとか、相手にダメージ与えようとかそんな冷静な振りしないで、怒り全部お母さんにぶちまけな。お母さん聞いててあげるから、悪口言っちゃいな」
「うん、そうだね……えっと……低収入、男尊女卑……! マザコン野郎! 料理もろくにできない! しけたやつ……!」
「うんうん、最悪だね、辛かったね」
「……つ? あ、友達に作ってもらったダサいシャツ!」
「ほうほう、それはダサい」
「貧乏神! み……薄い髪!?」
「あれ?」
「男尊女卑! 便所掃除組! 掃除屋ならば総じて取替え! 」
「……あやちゃん?」
「……やばい、楽しいこれ」
「あやちゃん……なんか音で遊んでる?」
「苦虫を噛み潰して無視、眼中になし! お前の顔は蛆虫!」
「おおー、いいねいいね、おもろい」
「実家の寄生虫! 実際その年になって気持ち悪いっちゅうねん! 持て中年の自覚、こっちは持ってるプロの自覚!」
「おおお! かっこいい」
「やばい! これラップだ! 今ならラップのリリック書ける! これ、短歌にはできないやつだわ、これからスマホで書いていい?」
「おお! 書きな書きな! もう今日はすき焼きや! 書いてガッツリ食べな!」
そんなわけで、私はリリックを書き始めた。元々ヒップホップは好きなジャンルだった。ダンスミュージックも大好きだった。でもこんな流れでリリックを書くことになるなんて。布団に転がり、スマホにリリックを書き出すと、一気に言葉は溢れ出した。
「野口さん、あのリリックやばいっすよ」
リリックを書き終えてすっかり元気になった私は、友人のバンドマンと焼肉を食べていた。パンクバンド出身の彼とは20代の頃、短歌朗読とギターと映像をコラボしたユニットで活動していた。ある有名バンドが昔、動物の臓物を撒き散らして演奏していた話を聞いて私が目を輝かせていたとき、「野口さんは撒き散らさなくていいですからね、臓物」とそっと忠告するくらいには、私のいかれ具合に理解がある友人だ。
「あ、俺肉焼きますよ」
「いや、私焼き奉行なんで、どんどん食っちゃってください」
「あ、そっすか! じゃあ遠慮なく!」
「はいはい、たんとお食べ。この機会に野菜もね」
「あ、そうでした! さすがあや子女史!」
彼はカルビとハイボールを交互に口に運びながら、また口を開いた。
「いやあ、俺、リリック送られてきた日バンドの先輩に電話で『ふざけてんのか、てめえ!』とかめちゃくちゃ怒鳴られたんですけど、そのあと野口さんのリリック読んで、こっちの方が格段にえぐいなって思いましたもん、野口さんのリリック、えぐいっすよ」
「まじですか! 嬉しいな! もうこの際ラップやろうかな」
「やってくださいよ! フィメールラッパー歌人!」
そうしておだてられたせいか、私は何人かの歌人にリリックを見せるようになった。「最の高……!」「岡井隆のサンプリングが文化的」「社会的なテーマなのいいですね」といった反応に味をしめて、ますますヒップホップの音楽を漁る日々。でもこれというラッパーには、T O K O N A―Xと呂布カルマ以外ピンとくるものに出会えなかった。これではと限界を感じ、ラップに詳しい歌人におすすめラッパーを訊ねてみた。友人は私の好みも踏まえた上で五人のラッパーを紹介してくれた。
その中に、見た目も声もこれぞどストライクという、黒いロングヘアに赤いルージュのある女性ラッパーがいた。元々女性クリエイターに共感するたちではあったけれど、それを抜きにしても心臓を撃ち抜かれるほどのどストライク。名前はAwich。調べたところによると沖縄生まれでアメリカに留学した先で結婚、娘を授かるが夫を事件に巻き込まれ亡くしたという壮絶な人生ののちのシングルマザー。私なら耐えられそうもないその経験をした彼女はほぼ同世代。どうしたらそんな人生をくぐり抜けて、フィメールラッパーとしては若いとは言えない歳でこんな大活躍しているんだろう。比べるものではないがとても勝てない。と焦燥と羨望の念がじりじりと湧き上がる。そしてYouTubeでM Vを視聴した瞬間、感動で鳥肌が立った。その中でもAwichが尊敬するラッパー・ANARCHYとの楽曲、『やっちまいな』は、私の性暴力の経験を癒すのにとてつもなく効果的だった。こんな強い曲、聞いたことない。こんな強い女性、見たことない。何かしたい。何とか、Awichに近づきたい。そのうち、歌詞に「うるまの煙草」というものが出てくることに気がつく。どうやら彼女の故郷、沖縄限定の煙草らしい。よし、これを吸いに行こう、と唐突に思う。
布団から起き上がると、スマホでスケジュールを確認し、すぐさまパソコンを開くとA N Aのウェブサイトを開く。彼女の故郷で、うるまの煙草を吸ったら、何か変わることがあるかも知れない。それによくわからないけれど、そこそこ日常生活ができるようになったとはいえ、この自分で傷をえぐってはうなされている日々から抜け出すいいチャンスだ。そんな野性の勘のみでANA便を予約すると、スマホで沖縄の観光サイトを漁り、Awichの楽曲を聴きながら布団に寝転がると、喉からはくつくつと笑いが込み上げた。
#2に続く(11月末に更新予定です)
◎プロフィール
のぐち・あやこ/1987年岐阜県生まれ、名古屋市在住。2006年、「カシスドロップ」にて短歌研究新人賞受賞。2010年、第一歌集『くびすじの欠片』にて現代歌人協会賞を最年少受賞。ほか歌集『夏にふれる』『かなしき玩具譚』『眠れる海』。岐阜新聞にて月一エッセイ「身にあまるものたちへ」連載中。