鈴木成一と本をつくる#2 「デザイナーには勇気も人徳も必要である」
くちびるを固く結びながら
「このデザインは買うに値するのか?」
「イラストとタイポ(グラフィ)が殺し合ってるよ」
「これじゃ、わけがわからないと思うな」
受講生たちの装丁案が次々と講評されていく。その批評は端的で鋭い。前回授業から2週間、受講生たちが愚直に課題作品『誘拐ジャパン』(横関大・著)と向き合い、練り上げられたデザイン案が丸裸にされていく。その光景に、取材者の私までたじろいでしまう。もしもライターで生業をたてる自分の文章が、大勢の前でこんなふうに評されたら・・・・・・と想像すると慄然としてしまう。
鈴木成一の「超実践 装丁の学校」は、7月10日開催の第2回にしてラフデザインを提出させた。20人弱の受講生たちのデザイン案を、翌11日に開かれる第3回とあわせて2日間にわたって講評していく。全5回の授業を経て、最終的に鈴木が選んだデザイン案は、今秋に発売を予定している『誘拐ジャパン』の装丁に実際に採用される。商品として書店に並ぶ本だ。鈴木の評価が厳しくなるのも当然であろう。
それでも装丁家=ブックデザイナーとして一皮むけるためと、ここに集まった受講者たちは、くちびるを固く結び、鈴木のストレートな言葉を受け入れる。その姿を見て「成長には痛みが伴う」なんて使い古された言葉が、実感を伴って脳内にリフレインした。
外は生ぬるい風が吹き、細かい雨粒が空気を湿らせている。梅雨の湿気にうんざりしながら汗だくで会場の下北沢の本屋B&Bに着くと、すでに受講者たちは揃っていた。鈴木はビールを一杯だけ飲み干したところらしい。全員、準備万端である。
エンタメ小説は明確な意志を持つ
授業冒頭、まずはミニ講座が行われた。初回の「装丁概論」を踏まえて、進行役の編集者・柏原航輔が問いを投げかけ、鈴木が答えていく。
柏原は「純文学らしい装丁、エンタメらしい装丁とはなんですか」と尋ねた。前回、受講者たちが自己紹介とともにごく簡単な装丁プランを発表した際、鈴木は「(それだと)純文っぽくなるんじゃないかなぁ」と何度かコメントしたからである。『誘拐ジャパン』はエンタメ小説だから、それらしき装丁を考えよ、というメッセージであることはわかる。しかし、そもそも“純文学感”、“エンタメ感”とは何なのか。
「純文学は新しい文学表現の探求であり、感性への挑戦ですよね。読者を楽しませるというよりも、新しい小説のあり方を提案するもの。だから抽象的であって、アート作品に近いんです」
鈴木はそう語り、会場である本屋B&Bに陳列されている小説を紹介する。自らが装丁を手がけた上田岳弘の『旅のない』(講談社文庫)だ。
2019年に「ニムロッド」で芥川賞を受賞した上田は、仮想通貨やUberEATSなどの現代的なモチーフを扱って、人間の生のあり方に迫っていく作品に定評がある。そうかと思えば、SF的な想像力を駆使し、抽象的で難解な文体も操る、一筋縄ではいかない作家だ。
『旅のない』は、コロナ禍で書き綴られた、上田の初の短編集だ。百戦錬磨の鈴木でも、「どれが一番しっくりくるかわからない」と、20パターンものプランを提案したという。このエピソードに、ノンフィクションやエンタメ小説を中心に、鈴木に何度も装丁を依頼してきた柏原は、「鈴木さんに頼んで、そんなにたくさんの装丁案を提案されたことないですけど」と苦笑する。「やっぱり純文だとそういうアプローチになるんですか?」と問われ、鈴木は頷き、こう言い添えた。
「逆にエンタメの場合は、作家が『こういう作品を書こう』という明確な意志を持っているものだから。その意志に合わせていくことが必要になるんです」
エンタメ小説は、著者の企ての賜物。つまり、その企みを読み解けば自ずと装丁のアイデアは方向が定まっていく・・・・・・。鈴木の言いたいことはこういうことだろう。同時に気をつけなくてはならないことがある。それは「説明的になってしまう」ことだ。装丁は本の説明に終始してはいけない。ブックデザインが体現すべきことは「内容と文体の持つ個性」であると鈴木は言う。
「デザインでひとつの個性を成立させるのが装丁家の仕事です」
エンタメ小説の装丁でイラストが多用されるのは、説明的になりすぎず、本の性格を表現するのにうってつけだからだろう。鈴木は、「エンタメ小説のブックデザインはイラストレーターにかかっている」とまで言う。編集者や著者との打ち合わせでは5〜6人のイラストレーターを挙げて検討するという鈴木には、手札となるイラストレーターの名前が1000人くらいインプットされているというから驚きだ。
初回の講義でも『誘拐ジャパン』の表紙には、イラストを使うのが妥当だろうという見解が示されていた。はたして受講生たちはどういったアプローチを見せるのだろうか。
読むためのスイッチを入れるようなデザインを
講評の手順はこうだ。まず、スクリーンに発表者のラフが投影されるなか、5分程度のかんたんなプレゼンを行う。『誘拐ジャパン』をどう読んだか短く話し、デザイン案の意図を説明する。そのあとで鈴木がコメントしていく。
同作は、大物政治家の命令で、主人公の美晴を含めた3人の女性たちが現職総理大臣の孫・英俊を誘拐するところから物語が始まる。「誘拐」や「政治」など重いテーマを扱いながらも、著者は軽妙な語り口と個性的な登場人物たちの群像劇でぐいぐい読ませる。生徒たちは、このシリアスとコミカルの絶妙なバランスをデザインでいかに伝えるかが問われる。
受講生たちは短期間で、それぞれに趣向を凝らしたデザインを提出した。驚くべきことに似たようなデザイン案はひとつもない。私のような素人目にも、これは気になる、というものがあって、それを鈴木がどう講評するのかワクワクする。
トップバッターは佐々木。タイポグラフィを得意としており、そのポートフォリオには鈴木も感心していたほどだ。
今回、佐々木はタイポグラフィはもちろんのこと、イラストまでも自ら手がけたという。記号的な絵柄で描かれた主要な登場人物が5人、文字と同程度の存在感で配されている。佐々木は、「主要人物を犯罪っぽさは感じさせつつも、怖くなりすぎないように描きました」と、重々しい空気のなか先陣をきってくれた。
さて、鈴木はどう受け止めるか。2案あるうちの1案に対し、そのインパクトを認めつつも、「説明不足ですね」と率直に語った。
「本を買うっていうのは、ある種の決断です。装丁家は、その本を買うに値すると思わせるだけの希少性を出さなくちゃならない。そういう意味では軽すぎる。たしかにAmazonでパッと書影が出たとき目を引くと思うけど」
たしかに印象に残るデザインではあるものの、鈴木の発言を聞くと、それがただちに本の個性を説明しているとまでは思えなくなってくる。記号的に並べられた5人も、実際に『誘拐ジャパン』を読んだあとなら誰を示しているのかわかるが、これから本を読もうとする人にとっては意味を持たないということだろう。鈴木は「読むためのスイッチを入れるようなデザインが欲しい。エンタメとしてのフックがあるといい」とも言った。
とはいえ、佐々木のタイポグラフィと造形力を鈴木は高く評価し、「タイポをメインにしながら、登場人物の描写を控えめにしてもいい」とアドバイス。
これを受けて、佐々木はどんなブラッシュアップを施してくるだろうか。
説明不足か、説明過剰か
続く北尾崇は、この日最多の4案を提出した。1案目は誘拐犯とさらわれた子供が円陣を組み、それを犬が眺めているイラストがある。誘拐犯たちのコードネームが「西遊記」にちなんでいることを踏まえて、タイトルの文字には孫悟空、猪八戒、沙悟浄、三蔵法師を示唆するアイテムがちりばめられている。2案目は作中に出てくる「黄色いネクタイ」を表紙のど真ん中に置き、登場人物たちが集合写真を撮っているような構図のイラストがあり、タイトルが彼らを上下から挟む。
この2つのプランを見て鈴木は、「内容ありきになっている。意味的に構成しているだけで、有機的につながっていない」と述べた。おそらくここに、エンタメ小説の装丁の難しさがある。デザインで内容を説明できていないと、書店にやってきた客はどんな本か想像できない。かといって情報量の加減を間違うと説明的に過ぎ、訴求力に欠ける。このあとに続く発表者たちも、この「説明不足」と「説明しすぎ」という言葉を鈴木から投げかけられていた。このバランス感覚は、一朝一夕に身につけられるものではなさそうだ。
奥田朝子は、初回で「誘拐ジャパン」を「サムライジャパン」と捉える読み解きが光っていた。
注目のピクトグラム案だが、果たしてうまくハマったのだろうか。ラフには、相関図的にグループ分けされた計19人のシルエットが所狭しと並んでいる。顔を持つのは、誘拐犯の3人と、誘拐される英俊だけだ。ピクトグラムの上から、表紙の3分の2を埋める「誘拐ジャパン」の文字は、真っ赤なカバーとあいまって強烈だ。赤を選択したのは「日の丸」のイメージを強調するためだったというが・・・・・・鈴木が言うには「赤は難しい」。
「赤は戦略的すぎて、デザインがなかなか勝てないんです。相当な覚悟がないと使えない色ですね」
肝心のピクトグラムの見せ方についても「コミカルにしたいのかシリアスにしたいのか方針が定まってない」と、奥田の迷いを見抜く。19人もの人物が並んだことに対しては「説明はほどほどにしないと、メッセージが失速してしまう」と評し、疾走する誘拐犯たちと英俊だけを際立ててもいいんじゃないかと提案した。
鈴木は「デザインはひとつの主張なんです」と言う。本の個性を示す装丁、それはデザイナーの勇気と言い換えてもいいのかもしれない。
大物イラストレーターを摑まえた
この日、最も評価が高かったのは、本間はるかの装丁案だろう。初回で出た「全員共犯」というキーワードを「登場人物だけでなく国民もみんな共犯者(だけど"悪者"はいない)」と突き詰める。これはまさに鈴木の言う「ひとつの主張」であろう。このメッセージを示す手法として、本間は「白と赤のオセロ」という"私らしいアイデア"を持ってきた。
本間のここまでの説明は非常に明快だ。プレゼン資料もわかりやすく、実際のプランへの期待感を高める工夫もあった。
群像的に登場人物たちのイラストを並べ、そのうえから碁盤の目が描かれて、赤と白のオセロの石がちりばめられる。ちなみに赤と白は、奥田と同様、「日の丸」のカラーから来ている。さらにカバー用紙には鏡面のような輝きを放つ「オフメタル」を使用し、読者の顔が映り込むことで「読者自身も共犯者として顔を並べる仕掛けをやってみたい」と語る。
「全員共犯」という「ひとつの主張」を選び取った勇気と、それを伝えるためのアイデアがうまく噛み合っている。本間のプレゼンを聞きながら、鈴木が何度かうなずいていたのが印象的だった。鈴木は「赤い丸が登場人物たちの顔を見え隠れさせているのがいい。非常に新しい印象を受けます」と語る。一方で「静かなイメージだから、文字が載るとどうなるのかといった不安はある。文字とイラストが相乗効果を生むようにがんばってください」と付け加えた。
現時点では本間が一歩リードしたように思えたが、この日会場が一番どよめいたのは、藤原和枝の発表だった。前々日に肋骨を骨折し万全の状態で臨めなかったという藤原だが、大物イラストレーターに協力を取り付けたと報告すると、鈴木は思わず「それはすごいな」とこぼした。そのイラストレーターは数々の文芸作品でイラストを手がける売れっ子だ。温かみと寂しさが同居した作品にはファンも多い。
鈴木も「これは見っけもんだね。交渉含めて藤原さんの人徳ですよ」と笑う。肝心の藤原の装丁案は夜明け前の国会議事堂の前で佇む主人公の美晴と英俊、そして犬を描くというもの。鈴木は「パッと見だとシリアスに見える。エンタメなのに格調高くなりませんか?」と懸念を示しながらも「とはいえ、イラスト次第だな」と期待を垣間見せた。
勇気に人徳。装丁家の人間性も、デザインには反映されるようだ。
「天才がすぐ見つかるなら、学校はいらない」
他にも完成が気になるラフ案はあった。たとえば、国会議事堂を西洋劇場に見立てるという水澤アルトが用意したイラスト案は、ケレン味があり想像を掻き立てる。作中ではさほど重要ではない自動車というアイテムを使うことで、犯人グループの連帯と疾走を表現しようと試みる、百目鬼多恵のアイデアも可能性を秘めていた。
そして三浦毬の渋谷スクランブル交差点の俯瞰写真を使って、そこに写る街頭スクリーンにイラストをはめ込むというアイデアは、イラストと写真のハイブリッドという唯一の手法で目立っていた。イラストは有効だが、正解だとは限らない。あえてそこを外すのも装丁家の選択だろう。
どの受講生もそれぞれのアイデアと得意技が光るプランをぶつけ合い「ラフ講評」の前半戦は終わった。
それにしても、驚くのは鈴木のボキャブラリーの多さだ。たとえば英俊というキャラクターに対して、「こまっしゃくれた」「大人びた」「人を食ったような」「上から大人を見下ろすような」「人をなめたような感じ」などと、次々と言葉があふれてくる。さまざまな言葉で表現することによって、少年の人物像が浮き彫りになってくる。こういった言語化によって、デザインが明確になっていくのかもしれない。そういう意味ではプレゼンのうまさも、デザイナーの素質を見抜くポイントなのかもしれない。
さて、後半戦は翌日行われる。率直な物言いで講評していく鈴木の真剣な姿を見て、明日発表の受講生は今夜、眠りにつけるだろうか。少し気の毒になりつつも、今日の講義を受けてどんな発表になるか正直、楽しみである。
この日、鈴木と柏原、そして鈴木のアシスタントの平林美咲に混じって、ささやかな打ち上げに参加した。前半戦の装丁案を振り返りながら、鈴木は、明日の展望も語った。私が「ずば抜けて良いデザインというのは、案外、出てこないものなんですね」と水を向けると、「そうだよ。天才がすぐ見つかるんなら、“装丁の学校”なんて大変なこと、わざわざやんないよ」と言った。
作品の読解、イラストレーターや写真家らとの人脈、デザインのメッセージ性。装丁家には総合力が問われる。一芸がものをいうわけではない。同講座は、才能を探すためにあるのではない。鈴木が”後進を育てる”と繰り返し語るのは、文字通りの意味なのだろう。
その覚悟を決めた鈴木は、この晩、芋焼酎「鶴見」のロックをダブルで飲みまくり、店のボトルを空けてしまった。還暦を超えてなお、パワフルな男だ。
(文中敬称略)
取材・文/安里和哲
写真/平林美咲(鈴木デザイン室)
◎筆者プロフィール
あさと・かずあき/フリーライター、インタビュアー。1990年、沖縄県生まれ。ポップカルチャーを中心に取材執筆を行う。ブログ『ひとつ恋でもしてみようか』。Xアカウント@massarassa