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野口あや子「MC泥眼いざ勝負」天才歌人、ラップ沼で溺れ死ぬ #5
10代後半にして歌人デビューし、順調に短歌界でキャリアを築いていた筆者が、あろうことか30代後半でラップに目覚め、フィメールラッパー歌人という荒野を拓いていく物語です。毎号、オリジナルの短歌とリリックを発表します!(#4はこちらから)
◆今月の一首
名乗るならMC泥眼、くろがねのマイクを握り吐き出す声は
一回戦は激韻踏みラッパーと
2024年7月21日、その日は、「伏見サイファー祭」と銘打たれたコラボイベント会場、納屋橋R U S Hに一番乗りで着いていた。宵っ張りで朝も遅い私がその日ばかりは早々に目が覚め、顔を洗い歯を磨き、朝ごはんを食べ、化粧をして、いつものユニフォームの着物に着替えてもまだ十時半。二時の開催にはまだ時間がある。急いで用意しすぎたか、ソワソワして部屋の片付けでもしようかと思ったけれど、そんなところで余分な体力を使いたくなかった。軽い家事を片付け、ぼんやり座椅子に座りながらiTunesでJapanese H I P H O Pを聴く。心の内圧がどんどん強くなるのを感じる。それでも落ち着かず、バトルエントリー時間の直前に会場にいくと、その重たく鉄っぽいドアを開いた。
「え?」
何人かの演者が怪訝そうな顔をしてこちらを向いている。今日はバトルイベントのゲストによるゲストライブ、メンバーの中から選ばれたラッパーのミニライブもあり、そうしたメンバーだけの打ち合わせ時間だったらしい。元々、サイファーもH I P H O P時間というべきか、時間ぴったりに始まることが少なく、十分、二十分遅れも珍しくなかった。そんな中、ほとんど仕事以上の熱量でエントリー時間より前に来てしまったのだから変に思われたのだろう。ああ、と周りはなんとなく理解し、全て空欄のトーナメント式の表に、一番に名前が書かれる。書かれた名前は「デイガン」これが私のM Cネームだ。
デイガン……漢字で書くなら「泥眼」だ。「泥眼」はお能の面の一つであり、鬼になろうとしている女の面だ。怨霊が取り払われて人間に戻ることもあれば、恨みが高じて鬼になることもある、その中間の面である。ルーツはもちろん短歌の世界の重鎮、馬場あき子さんの著書『鬼の研究』を読んで、知った名前だ。せっかくつけるなら女子っぽくない、怖い名前にしたくて、以前ストリートでこの字面を告げたら「こわっ」とつぶやかれた。お母さんでも彼女でもビッチでもギャルでもフィメールラッパーでもなさそうな怖い名前。でも、「あや子」ではなくM Cネームをわざわざつけようと思ったのも理由がある。この間、伏見サイファーに女性のラッパー二人が来たのだ。一人目の彼女は「タンジェント」といった。ちょっとアジア風のその顔に、本名? という野暮な顔をすると「M Cネームです」と答える。サイファーの一回目で、すでにM Cネームまで用意してある周到さに舌を巻いた。そのタンジェントの姿はなかったが、しばらく待っているともう一人、あの彼女がやってくる。彼女のM Cネームは「ちゃんちゃん」。地雷風メイクを顔に施し、「十四歳です」と名乗った彼女はどう見ても十四歳ではなく、「エヴァに乗れる永遠の十四歳!」とバースを蹴っていた。サイファーが中だるみすると「タバコ吸ってきます」とさっさと喫煙所に行く彼女。設定壊れとる。そう思いながらもサイファーが始まればいきなり「ディックをカット!」と可愛い声でバースを蹴る彼女に、男性陣は思わず股間を押さえていた。フィメール一人ではない安堵感とともに、ちゃんちゃんの出来には負けたくないと思う。これは、少数派同士を戦わせる多数派の陰謀? それとも同性に抱く自然な感情だろうか。どちらにせよ私、M C泥眼は歯を軋らせ、目をかっと開いていた。
「あや子さん、ちょっと」
あるメンバーが、私を手招きする。そこには、どう見てもヘッズではないきれいめギャルといった感じの若い女性が二人いた。
「この子たち、伏見サイファーのファンで、女の子だから、だから、ちょっと見ていてあげてくれない?」
「はい?」
「タバコとか、ドリンクとか、トイレとか」
「はあ」
ここでもまた平和主義に受け止めてしまう。タバコ吸ってるのもトイレ汚いのもそっちの都合で、私にできることは何もない。女性同士が一番気を使わないのではという、男社会の中の気遣いだろうか。でも、私も今日はプレイヤーだしオーディエンスだ。そんなところで性差で負担をかけられる謂れはない。とりあえず、二人にトイレの場所、ドリンクの買い方、タバコの煙は大丈夫かと、聞いたところで変えようがない気遣いを一通りかけてあげると、舞台に目をやる。今日は例のドキュメンタリーを撮ってくれたおかんも来ていて、一生懸命スマホのビデオをステージに向けている。印象深かったのはネス。ラップも短歌と同じように、自分の生き様を詠む「人生派」タイプと、言葉の美しさやテクニックで競う「テクニック派」「言葉派」がある。ネスは明らかに後者で、テクニックの軽やかさの中にちょっとした諧謔を感じさせるラップが印象的だ。「ネス、すげえ」「ネス、もっと評価されるべきだろ」と会場も湧く。
「あや子さん、ここ、俺と一回戦です」
気がつくといつも黄色いTシャツと黄色い髪色がトレードマークのつる兄がニコニコしてこっちにやってくる。
「俺とあや子さん、初戦です」
「え、嘘」
つる兄はマルチなエンターテナータイプだ。私の苦手な韻も普通のラッパーの倍踏むから、私の何百倍は踏んでいるだろう。ただでさえ韻が踏めないというのが致命的なのに、こんなところで激韻踏みラッパーと当たるとは。
「あや子さん、初めてですよね、じゃあ、俺先攻取りますんで」
「ありがとうござ……」
そこまで言って考える。バトルは後攻の方が有利だ。これでは、自ら下駄を履かせてもらってありがとうと言っていることになる。
「あや子さん、俺先攻行きますね!」
「そ、そ……それもやな感じだなあ!」
ようやくつる兄とどつきあって笑う。下駄履かせてもらっている場合じゃない。負けたら負けたで、正々堂々負ければいい。どちらにせよ恥ずかしくない負け方にしたい。いや、勝たなければ。勝てるのか? 激韻踏みラッパーに。できるなら……と戦い方を考える。つる兄の武器はそのエンタメ的な韻踏みにあり、そこに生の渇望や焦りはなかった。私が好きで聴く音源のラッパーはAwichはじめ皆ゴリゴリの血の匂いを通わせる「人生派」で、つる兄のラップは軽やかで滑らかだが重みという点では私の好みではない。同時に、自分がさっきライブを披露したネスのようなラップがしたいかも考える。できたら格好いいだろうが、自分目指すところでもないのはふんわりとわかる。
そうしているうちにちゃんちゃんがバトルステージに上がる。目が真剣だが、マイクがうまく音を拾えていない。そういうこともあるのか、と思いながらもちゃんちゃんの真剣な闘いっぷりに目が離せない。しかし結果は脱落。戻ってきたちゃんちゃんはライブ会場の椅子に座ると、地雷メイクの施された目でじっとステージを見ている。ふと手に持っていたヴィトン風のミニバックを見て「可愛いね」と話しかける。「はい、ヴィトンです」。こっちは詐称してない本物のヴィトンか? ますます謎が深まるちゃんちゃんだ。
ペラペラなら私の着物の方が分厚いペラペラ
いよいよ一回戦最終バトル。運がいいのか悪いのかつる兄と私の対戦だ。おかんがやってきな! というアイコンタクトを送る。気を引き締めてステージに上がると黄色いTシャツと着物が並んでおお、と声が上がる。先攻の8ビートはつる兄の得意の韻踏みプレイだ。でもここから音を拾って韻で返すことはできない。声を絞り出そうとするけれど、用意してきたバースが一気に飛んでしまった。無言で金魚のように口をパクパクするほかない。なんとか言い返す。
「お疲れ様、そうだなあ、韻を踏むのどうもお疲れ様、中身が入ってこないなあ、お前のその黄色いペラペラみたいなもんだ……!ペラペラなら私の着物の方が分厚いペラペラ!……まあなんかどうやって韻踏むかそれだけでやってんだろ、それでまあ頑張ってくれよ!」
「……おう、頑張るよ!韻踏むのオレめちゃくちゃ頑張るよ!じゃあ背後聳え立つインカ帝国。韻だけって韻踏めない言い訳乙。普通に。それだけ。まあ参加賞、なにも貰えない。参加賞にあげるきのこの山、早く帰れよ着物のおばあちゃん!」
「着物のおばあちゃん? I don’t know、なんかわかんないなりに韻踏んでることはわかる。それならお前も脱げよその黄色いTシャツっ、それで裸になって迫ってこいよ偉そうにっ!したら本当のセッションができるかもなあ、まあ私結構攻める方だけど、でもまあ正常位しかしなさそうな男だ!私はもうちょっと上に行きたいな!」
笑いとともに終わると一斉にジャッジに入る。言うまでもなく、つる兄の勝ちだ。ステージから降りる時、真ん前で見ていたいつメンのことはが笑顔とグーサインを出してきて手と手がぶつかり合う。負けたなりにかましたった……と思いながらも胸にまたざらりとした感触が残る。喫煙所に行くと、負けました、と「お父さんラッパー」になりたてほやほやのもりせんに言う。
「まあ、声出てなかったからね」
「ん?」
「いや、聞こえなかったからね」
「ああ、そう……そうでしたか」
そうか、私の失敗したところも、成功したところも、まず声になって届いてなかったらしい。緊張のあまり、ハルさんに教えてもらったマイクの持ち方も忘れて、小さい声を押し殺して絞り出していたらしい。そういえば、響いていた感じもなかったし、フロウもなくて棒読みだった。聞こえなくてよかったのか? いや、どんなバースでも聞こえた方がいいに決まっている。ふらふらとフロアに戻るとしばらくバトルを観戦する。しばらくして、おかんが気を配ったのか、「外出ようか」と言ってくれる。そうだ、このままクローズの八時までいるのは三十代にはきつい。おかんとスイーツの店に入り、おにぎりに食らいつく勢いでケーキをバクバクと食べ、アイスティーを啜る。ちょっと着替えてくる、とおかんに伝えると、トイレで着物を脱ぐ。その下に着ていたノースリーブワンピースは脇やら腹筋まで汗でびっしょりだ。その上にユニクロのUVカットのパーカーを着て、着物と舞台用のハイヒールと帯がわりのコルセットをくるくると丸めると、用意してあったトートバッグに投げ入れる。トイレの鏡に、何か納得いかなそうな自分の姿が映った。そう、このバトルは何か納得がいかない。何かおかしかった。
トイレから戻ってきて、おかんに向かって口を開く。
「なんか声、聞こえてなかったらしいね」
「えー……ああ、これ言っていいかわかんないけど、うん……そうだったんだよね」
「だよねー」
「そう、朗読であれだけ自信持ってやってるのに、どうしたんだろうって……」
「あー、ビートがあると焦ってああなっちゃうんだよね……なんか、アウェイ感、感じちゃうしね」
「あーそれはそうだろうね」
違う。初めてだけど、別にアウェイではない。サイファーは私の居場所だったはずだ。自分の都合のいいように言葉を折り曲げてる。そう、何より気になったのはさっきのバトル。
「……実は私、さっきのバトル、あんまり好きな闘い方じゃなかったんだよね」
「え、そう? 一回目のやりとりは聞こえなかったけど、二回目のやりとりは相手も怯んでたじゃん」
「そうそう、正常位しかしなさそうな男だ、っていうの」
「うん」
「なんか違うし嫌だよね」
「違う? 嫌?」
おかんの目線を浴びながら、アイスティーを飲み干す。まだ喉が渇いていて、お冷やをおかわりする。それでも渇きは止まない。これはもう、ほとんど心の渇きだろう。
「でもさー!」
ふと、二人とも思い当たっていたことが重なった。
「なんかラッパーって、陽キャっぽい陰キャって感じしない?」
「するする! 100パーセントの陽キャはもっと容赦ないって!」
「そうそう、一緒にいてもさ、人の痛みがわかる爽やかな陰キャっていうかさ、そんな感じ!」
「そうなんだよねー、陽キャっぽい陰キャ、まさに感じてたことそれだわ!」
やはり思っていたことは正解だった。何かに傷ついたことがあるからこその陽キャぽい陰キャ、それははじめてサイファーに行った時から感じていたことだったのだ。
普段多忙を極めているおかんは久しぶりのスイーツに心が躍るのか、ケーキを美味しそうに食べ、フルーツのオリジナルティーを味わっている。一息ついた頃にまたライブハウスに戻ると、バトル終わりの舞台はライブになっていた。
「伏見サイファー、最高だなあ!」
舞台のラッパーが叫ぶ。
「でもギャルがいないよなあ!」
そう叫ぶラッパーに、伏見サイファーのメンバーとして弾けたい気持ちと、隠している怒りがマーブル模様になった。ギャルがいないのは、あなたたちの魅力と力不足でしょう? ギャルをライブハウスに足りない「もの」みたいに言うなよ……。そうモヤモヤしながらも、ライブは終わり、D Jタイムにうつる。気分を切り替えて、成人のマイメンのもりせんやまいぷらたちと、自主的にサイファーを始める。サイファーをしていると今までの怒りも何もかも忘れて、ただリズムに乗る一人のラッパーになれる。ラップは好きだ。でも、この性差はなんとも埋め難く、だからこそそこに私の原動力があるのかもしれない。D Jタイムが続き、最後は若いメンバーは帰り、ほぼ大人だけのD Jタイムになる。最後、ライブハウスを閉める時間になり、写真撮影を終えると、知り合った女性トラックメーカーとおかんと三人でエレベーターに乗る。メンバーがエレベーターまで送ってくれ、ありがとうございましたー! と挨拶すると、お酒も入ってテンションが上がったメンバーが叫んだ。
「ありがとう! フィメール!」
痛みのわかる爽やかな陰キャ、なのに
私の中で、ブチンと何かが切れた音がした。伏見サイファーの人たちは、基本的にいい人たちばかりだ。年功序列のルールもないし、皆ウエルカムで親切、まさに「痛みのわかる爽やかな陰キャ」だ。でも今日こうして半日一緒にいると、性差への意識が浮き彫りになってくる。楽しかった。でも、何か猛烈に疲れた。そう思いながら東京に帰るおかんと別れ、ライブハウスから家まで歩いて帰る。ライブハウスから家までに乱立する居酒屋やバーを通り過ぎ、アパートに着くととりあえずとストックしてあったヨーグルトとプロテイングラノーラで夕食兼夜食をとる。性差に対する苛立ちと、自分のバトルの不甲斐なさ。両方が迫ってきて、シャワーを浴びて横になるけれど眠れない。またiTunesのJapanese H I P H O Pのチャプターを開き、眠れない耳に重低音のビートを押し込む。しばらくすると飽きてきて、YouTubeを開くと、歴代のバトルライブの映像を再生した。皆韻やフロウだけでなく、観客へのアピールの仕方もうまい。今日のつる兄も私のバースを煽ると同時に、周りを盛り上げることに長けていたと思い出す。比べて私は、つる兄のことばかり気にして、聴いている観客への目配りができてなかった。バトルであることはわかっていたが、同時にこれがバトル「ライブ」だという感覚がなかった。朗読のパフォーマンスの時はあんなに悠々と朗読ができるのに、なんでだろう。
YouTubeの中のプレイヤーはビートを乗りこなしているのに、私はビートに急かされている感覚がある。
Im in toilet
わからない わかる わからないということがわかる
わからないとわかるのあいだに建つテレビ塔 それを見上げて今更どうしよう
見下ろすライブハウスの汚いトイレット 劣情と抑圧と貧困が混ざるションベンと
その匂いの中で着物を着替えたこと
女性用トイレはない 多様性は知っていてあえて知らない
タバコはやめる でも雰囲気に合わせて吸うこともできる
コンプラ破ることも知ってる そのたび不条理は鋭く光る
あえて見過ごす 見逃す すれ違う うまく言葉で騙し合う
言葉は数珠つなぎ 私のアパートメントまで裳裾長く引きずられる
I am a poet and a rapper でもその前にI am me
帰って開くポエトリーブック 配慮と清浄な群青の言葉はなお歯咬む
そこにない汚いトイレットの言葉 知っていてなお痛む
「正常位しかしなさそうな男」のつまらない差別
「男しかしなさそうなラップ」の反転の結末
理屈はわかるのに現状が追いつかない
スキルに舌を巻きそれでも覚悟が足らない
わかるとわからないの境目の堀だらけの丸の内 わかる
そこに身を置きたがるホームレスの胸の内 わからない
わかるのはもっとあとだろう でもそのあいだに染まったらどうしてくれよう
サディスティック丸の内の夜 そしたらA N A R C H YあたしをM I Cで撲って
#6に続く
◎プロフィール
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のぐち・あやこ/1987年岐阜県生まれ、名古屋市在住。2006年、「カシスドロップ」にて短歌研究新人賞受賞。2010年、第一歌集『くびすじの欠片』にて現代歌人協会賞を最年少受賞。ほか歌集『夏にふれる』『かなしき玩具譚』『眠れる海』。岐阜新聞にて月一エッセイ「身にあまるものたちへ」連載中。