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宮下洋一「この街ではふたつの願いは叶えられない」パリに燃やされて#1
講談社ノンフィクション賞作である『安楽死を遂げるまで』をはじめ、生と死の極限を追い続けてきたジャーナリスト宮下洋一氏が人生の岐路に立っている。パートナーと決別し、長年住んだバルセロナを離れ、パリにやって来た。パリ五輪の取材スタッフを務めながら、異邦人としての新たな生活を編み直す。
海外に出てちょうど30年が過ぎた。アメリカの大学を卒業し、スペインに移り住み、その後、バルセロナやフランス南部ペルピニャンを拠点にジャーナリストとして活動した。そして、出会いと別れを繰り返し、この「花の都」と呼ばれるパリで、昨年から僕は、ひとり暮らしの生活に戻った。
パリを選んだ理由は、いくつかある。過去にフランス人女性との婚姻経験があり、長期滞在許可証を持っていることがひとつ。バルセロナでも長年、仕事を続けたが、コロナ以降に取材の発注が減り、限界を感じたこともそうだ。そしてこの街が、約1年後にパリ五輪・パラリンピックの開催を控えていたことが決め手となった。その現場を直に歩いてみたかったのだ。
タイミングよく、2023年初頭、日本の大手メディアからパリ支局勤務の打診があった。パリでパラリンピックが終わる2024年9月まで、スポーツの祭典の取材と執筆に加え、ジュネーブ支局の運動特派員の助手になるという1年4カ月間の業務を任命された。一生に一度しか経験できないダイナミックな仕事だと思った。
47歳にして、僕は、新たな人生のスタートを切った。
大家の最終試験が待っている
「この書斎が好きって言ってたわよね」
不動産屋のリンダが僕を見て、満面の笑みを浮かべていた。
「そうなんです。それにしても、よかった。やっと見つかった」
最初はどうなるものかと思っていたが、なんだかんだ書斎に一目惚れした第一希望の物件を賃貸できることになり、僕は、胸を撫で下ろした。
パリのアパートをインターネット上で探していた時、リンダが口を酸っぱくして言っていた物件探しの鉄則があった。
「ダメよ。希望はひとつよ。この街で、ふたつの希望を叶えるのは、まず無理だと思ってちょうだい」
候補に挙げていたのは、アパート全体の陽当たりがいいこと、IHよりもガスコンロのキッチン、シャワーよりもバスタブが良くて、執筆欲が増す書斎があり、ベッドルームはふたつ、かつ駅近であること、だった。無理を承知でも、まずは言ってみるほうがいい。
すべてがダメだとしても、机に向かって書くことができない習性のある僕は、執筆に集中できそうな書斎がほしかった。どうせこのアパートもまた撥ねられるのだろう。と、思っていた矢先にメールが入った。
〈オーナーの了承が下りました〉
早まって借りようとした、その他の好みでない物件がすべて撥ねられ、結果オーライ。幸いにして、決まったアパートは書斎だけでなく、駅近の上、ガスコンロのキッチンも含まれるという三つもの希望が叶った。
それにしても、パリのアパート探しを始めてから契約を交わすまでに、2カ月もかかってしまった。パリからでなく、二拠点生活のひとつだった南仏のアパートからパソコンを使って探していたため、なかなか希望する物件が見つからなかったのだ。というよりも、見つかったとしても、すぐに別の借り手に奪われた。
競争率の高いパリでは、不動産業者は急がなくても借り手が次々と見つかる。そのためか仕事がゆっくりで、メールや電話の返信も鈍い。おかげで、5月スタート予定だった新たな仕事の開始時期を6月まで延ばす羽目になってしまった。
僕は、フリーランスという不安定な職業であるために、不動産屋があまりいい顔をしてくれなかった、というのが遅延の最大の理由だ。まずはプロフィール、確定申告書、仕事の見通しといった試験をパスしてから、大家につないでくれる。その後、今度は大家の最終試験が待っている。
ちなみに、不動産会社4社と同時進行で物件を探していたが、どこも写真の割には平米が小さかったり、値段の割には内装があまりにも古そうだったりと、いまいちピンと来なかった。
どの国の都市でもそうかもしれないが、パリでも家賃の3倍の給料を稼いでいなければ賃貸は不可だ。安くても40平米くらいで1500ユーロ(約25万円)はかかるパリの家賃ともなれば、4500ユーロ(約75万円)の手取りがなくてはならない。
今になって思うと、高いと感じていたバルセロナのアパートのほぼ倍である。この時、1ユーロ・145円(1年後には165円!)という史上最悪レベルの円安・ユーロ高だった。比較的に家賃が安かったバルセロナさえも、ここ数年では東京の家賃とほとんど変わらなくなっている。
パリはとにかく高い上に、コスパで考えるとバルセロナよりも質が下がる。けれども、この街で働くからには仕方ないと割り切ることにした。
6月上旬、南仏のアパートを引き払い、高速鉄道でパリに向かった。いよいよ、新天地での生活が始まろうとしていた。
「君は、面白い仕事をしていることが分かったし、まあ日本人だから信用できたのもある。あとは、バルセロナでの経験も長いようだね。私はカタルーニャ地方の家系で、それもあってなんとなく親近感が湧いてきたのさ」
大家は、ロレアルのような大企業の会計監査人をしていると言った。日本人は信用されているためアパートを借りやすいというのは、通算8回の引っ越しを経験して思い知らされている。日本人であることが海外生活の上でだいぶ有利に働いていることを、若い頃はあまり実感していなかった。
最終的には、給料が3倍でなくても借りることができた。それにしても、パリ市内で賃貸契約を結んでいる人たち全員が、最低でも月に75万円を稼いでいるということだろうか。自分自身のこの先が、不安でならなかった。
「私は、これで引き上げるわ。あとは、大家さんとの間でやり取りを続けてください」
「リンダ、メルシー・ボク」
ブルーのフレアジーンズに白トレーナー、ハイヒールという洒落た身なりの彼女が、やるべき仕事を済ませてアパートを出て行った。彼女自身は、どんな場所に住んでいるのだろう。
「ガスと電気の名義変更は、今すぐここでやってしまおう」
と、大家が言うと、ガス会社に電話を入れた。こういった手続きは、一度で解決できないのがフランス。スペインもそうだった。骨が折れる作業を嫌なほど経験してきた僕は、椅子に座り、彼の電話の会話に耳を傾けた。案の定、同じ情報を何度も繰り返した挙句、担当者も3人交代した。
オペレーターが「来週になってしまいそうですが、よろしいでしょうか」と話す声が、携帯電話のスピーカーから聞こえてくる。大家の顔が突然、険しくなった。
「来週までかかる? その理由は何なんだい。こんなことをすぐに解決できなくて、君たち一体どうするのさ。とにかく、言い訳はいいからすぐに何とかしてくれたまえ。発展途上国に住んでいるんじゃあるまいし……」
彼の喝が入ると、あっという間に問題が解決した。やるなあ、会計監査人。名義変更はすぐに終了した。この人たちには、時には強く出る方が効果があることを、僕は長年の経験上、知っている。とはいえ、ここ数年、オペレーターというバイトをする外国人が急増しているため、中にはフランス語がたどたどしい人たちもたくさんいる。
外国語は、すぐにできるものでもないが、彼らからすれば生活がかかっている。フランスは、そんな外国人を低賃金で搾取したり、人手不足を放置したりはしない。フランス語を一定レベルまで習得させ、埋もれた外国人をも就労させるのだ。
しかし、専門用語を扱う仕事というのは、外国人には特に難しい。ネイティブの人たちは、僕自身も含む外国語話者の弱点をなかなか見抜けない。知ったかぶりで話すことだってよくあるが、知ったかぶりにも多大な努力が隠されている。外国人同士で気が合うのは、その努力を暗黙の了解として理解しているからだ。
翌朝、南仏のアパートからの荷物がトラックで到着した。引っ越し業者の彼は、10時間の道のりを経てやってきた。トローヌ通りの横に駐車し、ひとりで黙々と荷物を降ろす。電話ボックス並みに小さなエレベーターを巧みに利用し、3階まで運び上げた。たった1時間で大量の引っ越しが完了した。
「コーヒーメーカーをすぐに箱から出して作りますので、一杯いかがですか」
「ノン、メルシー(いえいえ、結構です)。これでまたすぐにペルピニャンに戻りますので」
運び入れ、移動、運び出しの3点セットで1500ユーロ。現金を手渡すと、「とても気持ちよく仕事ができました。またお手伝いできることがあれば何なりとおっしゃってください」と丁寧に述べ、階段を降りて行った。
足の置き場がなかった。断捨離が苦手な僕には、18歳から今に至るまで、29年分の荷物がある。その半分は、本と雑誌。これがとにかく重い。家具は絶対に買わない。運良くも、書斎と寝室の本棚には、それなりのスペースがある。立地、書斎、本棚、ガスコンロ。とりあえず1年半の期間は、この場所で乗り切れる気がした。
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新たな家の古びたフローリングの匂い、寝室の窓の右手に立つ高さ60メートルのふたつの塔と銅像、フィリップ・オギュストとサン・ルイ。次第に高揚感が増してきた。ビルのゼロ階(日本では1階)にあるレストラン「ル・ダル」へ行き、パリ生活最初のエスプレッソとパンオショコラを注文した。
フランス語のダサい方言
レストランの目の前には、ナシオン広場が広がっていた。フランス革命100周年を記念して建てられたエメ=ジュール・ダルの巨大作品「共和国の勝利」が堂々と聳え立つ。てっぺんにいるのは、この国を象徴する自由の女神マリアンヌ。約9キロ先の凱旋門と向き合っている。革命中には頻繁にギロチンによる処刑が行われていた場所でもあるという。
夏日和になりつつあるパリで、外にはTシャツ姿の学生や胸元を大きく開けたシャツ一枚で歩く女性たちがいた。レストランの中には、バルセロナではほとんど見ないテーラー仕立てのような体にフィットしたスーツとネクタイで着飾る男性がフォアグラを食していた。
カウンターに腰掛ける僕は、パンオショコラを味わいながら、四半世紀以上というそれなりに長かった自分なりの海外生活を思い出していた。
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住んでみなければ分からないこと、というのはたくさんある。初めてパリを訪れたのは、スペイン東部にある欧州3番目に古いといわれるサラマンカ大学に通っていた頃のこと。米ウエスト・バージニア州立大学に在籍中だった僕は、全米から集まった学生100人のうちのひとりだった。
サラマンカでは、合計7カ国籍の男女が住み着いた「パーティアパート」の中で、僕は一番小さな部屋を借りていた。それは、オドレイ・トトゥ主演の西仏合作映画『スパニッシュ・アパートメント』(2002年、セドリック・クラピッシュ監督)そのものだった。いや、それ以上に酷かった。
そのパーティアパートの仲間の一人だったフランス人のオリビエと一緒に、僕は、パリへ小旅行に出かけた。1996年冬のことだった。
もちろん、フランス語なんか話せない。西部ポワチエ出身のオリビエとは、当時、スペイン語で会話をしていたが、ちょうどこの頃、海外生活を始めてから初となる外国人の恋人が僕にできたばかりだった。
「マジかよ。で、フランスのどこの出身なのさ」
「どこかよく知らないけど、ペルピニャンっていうところみたい」
「オー、ノーン。ペルピニャンのフランス語は方言が強くてダサいから、絶対に覚えるなよ」
彼女の名前は、エレーヌ。色白でベリーショートの女の子で、2歳年上だった。見た目は、僕が想像していたフランス女性とは異なった。どちらかというと、スペイン人に近い濃いめの髪で、瞳の色も黒かった。その頃は、フランスは金髪や栗色の髪を持つ白人だけが住む国だとイメージしていた。
彼女は、「エラスムス」という欧州連合(EU)域内の学生が1年間、好きな国に留学できる制度を利用していた。経営学修士を学んでいたが、その単位は、フランスの大学にトランスファーすることができた。
エラスムスの就学先を選ぶ際には、その国の言語を話せれば理想だが、それが難しければある程度の英語ができればいい。英語の授業が多いからだ。EU市民は、日本人のようなコミュニケーションや読解問題を抱えていない。エレーヌは、英語はなんとなくできたが、不自由ないレベルのスペイン語をもともと話すことができた。
それから僕は、サラマンカでエレーヌと半同棲生活を始め、その後、お互いがそれぞれの大学に戻り、遠距離恋愛の時期を1年間過ごした。南仏とウエスト・バージニアの距離は、約6600キロ。僕が大学を卒業し、バルセロナで暮らすようになったことで、その距離は200キロに縮まった。そして、バルセロナとペルピニャンを往復する週末を繰り返し、数年後に結婚した。
僕はまだ、26歳だった。
最初の数年間、スペイン語で会話を交わしていたが、いつしか二人はフランス語で話すようになっていた。結局のところ、オリビエの忠告を守ることなく、南仏訛りバリバリの日本人になっていた。
「それにしても、君のフランス語、何かが違う。日本人っぽいアクセントでもない。どこで覚えたんだい」
今でもパリの街中を歩いていると、必ず聞かれる台詞がそれだ。
「ペルピニャンです」
「なるほど、だからだね。言われてみれば、確かにペルピニャンの方言がひどいね。ハッハッハ」
南仏訛りにもいろいろあるが、僕がいたスペイン北東部側との国境に近い南仏では、日本人が一般的に習うフランス語特有の鼻音がない。例えば、母親のママは「ママン」であって、パリ人が発音するような「マモン」にはならない。英語の「ファック」に相当する日常会話頻出の罵声語も、「ピューテン」であって、パリ人の「ピュータン」とは発音しない。
それもこれも、フランス語を目でなく耳で覚えたことが原因なのだ。エレーヌと彼女の家族の会話を毎朝毎晩、聞き続けてきたことで、自然とペルピニャン訛りになったのだ。それが南仏以外の町へ出張する際に、必ずと言っていいほど「君のフランス語、何かが違う」と言われ続けてきた所以だが、正直、パリ人がどう話すのかなんてまったく知らなかった。
今では、不自由なくフランス語を話すことができるけれど、その当時は、失敗の連続だった。現地の人たちに言葉でうまく伝えられず、歯痒い思いをしたことは多々ある。外国人に不慣れな小都市であったことも影響していた。そんな僕を、エレーヌはよく助けてくれた。
「証拠があるなら見せてくれませんか。店内にはたくさんのビデオカメラが付いているじゃないですか」
ペルピニャンの中心にある百貨店「ギャラリー・ラファイエット」で、僕が万引きを疑われた日だった。店内の事務所で身体と荷物の検査を受けたと知ったエレーヌが激怒し、百貨店に駆けつけ、まだフランス語をうまく話せなかった夫に代わり、販売員の女性に猛抗議をしたのだ。
「万引きを疑うことはよくあるんですよ、マダム」
「でも、彼は盗んでいなかったんですよね。なぜ謝らないのですか」
「………」
「見た目だけで人を疑うのはよくないと思うわ。今後、同じことを繰り返さないでいただきたい」
言うべき時には、どんな状況でも言うのが元妻だった。思ったことをすぐに口にするその性格は、僕たちの間に生まれた娘にも受け継がれている。2024年の3月に18歳になった。フランスでいう子供から大人になったのだ。
「あー、やっとひとりでどこでも行ける。電車も飛行機も、全部自分ひとりでできるから嬉しい。その時が来るのをずっと待っていたんだよ。できることは全部自分でやりたいから。パパは好きなように生きていいからね。今度、パリに会いに行くね」
ませているのか何なのか、5歳にして僕と離れ、8歳にしてエレーヌのパートナーと暮らし続けてきた娘は、そうきっぱりと日本語で口にした。
◎筆者プロフィール
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1976年長野県生まれ。ウェスト・バージニア州立大学卒。スペイン・バルセロナ大学大学院で国際論修士、ジャーナリズム修士。フランスを拠点に世界各地を取材する。著書に『卵子探しています 世界の不妊・生殖医療現場を訪ねて』(小学館ノンフィクション大賞優秀賞)、『安楽死を遂げるまで』(講談社ノンフィクション賞)、『安楽死を遂げた日本人』(以上、すべて小学館)、『死刑のある国で生きる』(山本美香記念国際ジャーナリスト賞、新潮社)などがある。