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西谷格「女の子は後ろを見ない」一九八四+四〇 ウイグル潜入記 #10

本連載は、上海在住経験があり、民主化デモが吹き荒れた香港のルポルタージュなどをものしてきた西谷格氏による、中国・しんきょうウイグル自治区滞在記です。少数民族が暮らす同地は、中国で最も当局による監視が厳しい地として知られています。 ※本編は1週間後に有料へと切り替えます。(#1~#3は無料公開/#1はこちらから)

心と心が繋がっている

 食事を終えると、外で話そうと提案された。食事代は私がおごることにして、店を出た。ちょうど歩道にテラス席があった。午後の日差しは強烈だが、パラソルの日陰がある。

「新疆っていうのは、面白い場所なんだ」

 そう言って、彼はテーブルの真ん中を指差しながら地理の講義をしてくれた。

「ここから一番近い海は太平洋ではなくインド洋。上海までは3500キロもあるし、北京も3000キロ。でも、300キロも走れば中央アジアの国々に出られるんだ。そして、西へ3000キロ進めばトルコや東ヨーロッパに着く。つまり、ヨーロッパとアジアのちょうど中間地点がここなんだ」

 男性の話は、客観的な地理データを並べているに過ぎなかった。でも、その数字を聞くだけで、何か伝わってくるものがある。現在の中華世界の中心である北京や上海よりも、カザフスタンやキルギスといった中央アジアの国々のほうが、地理的にはずっと近い。文化的にも、あるいは心理的にもそうなのかもしれない。

 しばらくすると男性の携帯が鳴り、15分ほどの長電話となった。電話を終えると、そろそろ仕事に戻るという。本当は、もっと話をしたかった。

「ホテルのそばまで送って行くよ。この先に人工の湖があって景色が良いから、そこで下ろしてあげる」

 お尻が火傷やけどしそうなほど熱を帯びた電動バイクの座席シートにまたがり、直線道路をタンデムで加速した。最高の乗り物に身を預けている気分だった。太腿あたりのバーを後ろ手でしっかり掴み、バランスを取った。

「ほら見て。あれはトヨタ、こっちはホンダ。新疆にはいっぱい日本車があるでしょ。日本車はやっぱり性能が良いイメージがあるんだよ。俺もいつか買えたらいいな」

 男性は道路脇に停まっている自動車を指差して言った。本当は収容所やイスラム教についても聞きたかったのだが、このまま別れてしまう流れだ。やむを得ず、会話の流れを無視して踏み込んだ。収容所という言い方は中国では「政治的に正しくない」ため、言い換えて聞いた。

「5〜6年前に、新疆で多くの男性が捕まって学校や訓練所に連れて行かれたって聞いたんだけど……。あなたも行ったことありますか?」

 相手の顔は後部シートからはほとんど見えなかったが、表情がこわばったのはすぐに感じ取れた。それまでの和やかな口調が一変し、男性は声を尖らせ短く言った。

「その話は今はしてはいけない。その話はするな」

 一片の怒気を含んだ真剣な口調に、ドキリとした。知らないととぼけるでもなく、「そんなものはない」と否定するでもなかった。私は慌ててくだけた口調で言い返し、その場を取り繕った。

「今は大丈夫だよ、誰も聞いてないよ」

「いいか、新疆ってのは世界でもっとも多くの監控(監視カメラ)が集まっている場所なんだ。街なかだろうが郊外だろうが関係ない。俺たちのことは、必ず誰かがどこかで見ていると思え」

 続けて、語気を強めてこう言った。声を一際強く張った理由は、風切り音がうるさかったからではないはずだ。胸の奥から絞り出すようでもあった。

「……今もそうだ」

 私は何も言い返せなかった。バイクはしくも、ホテル近くにそびえる習近平の巨大看板を通り過ぎようとしていた。「心と心が繋がっている」というあの看板だ。現実のアイロニーがあまりに強烈で、出来過ぎではないかと思ってしまった。男性は続けた。

「心と心が繋がっている」と書かれた看板

「5〜6年前と比べたら、今の世の中はずっと良くなったよ」

 さっきより声が大きくゆったりとしていて、自分に言い聞かせているようでもあった。何かについて語ることと思うことは、実はとても似ているのかもしれない。「新疆は良いところ」と復唱し、その理由を何度も語っていれば、本当にそう思えるようなってしまうのだろう。人間の内面は誰にも触れられないようでいて、その実、意外と容易にコントロールできてしまうものなのかもしれない。私自身の内面だって、どこまで私のものか分からない。

「じゃあなぜ、当時は暴動が起きたの? 彼らには何か不満があったのでは?」

「さあな。頭のおかしい連中のしたことだ。俺には分からない」

 こちらを見ている人が周りにいないかどうか、私は横目で警戒しながら話を聞いていた。彼は続けた。

「どんな社会にも良い部分と悪い部分がある。世界が完璧なのだとしたら、ロシアだってああいうことにはならないはずじゃないか」

 ウクライナ侵攻のことを言っているのだろう。世界は矛盾に満ちていて、完璧な社会など存在しない。それは事実だとしても、仕方がないと言って諦めてしまうのは、どうしても耐えられなかった。とはいえ、私の考え方にはすでに西洋的なそれが含まれているのかもしれないが。

「ウイグルの人たちが心のなかで本当はどう思っているか、知りたいんです」

 単刀直入に、思ったことをそのまま言うよりほかなかった。

「あなたはここに旅行に来たんだよね。なら、新疆の美しい部分を見て、楽しい思い出を作ってくれたら、それでいいんだ。俺があなたに望むのは、それだけだよ」

 こうして文字にしながら振り返ると、彼は言葉を選びながらも何かを伝えようとしていたのかもしれない。いや、意図せずとも伝わってしまったのかもしれない。知るべきではないことを、私は知ろうとしていたのだ。話題を変えて、質問を続けた。

「イスラム教は、新疆ではほとんどなくなったよね?」

「ほとんどじゃなくて、完全にだ。ほとんどっていうは、80%ぐらいを意味する。今はもう95%以上存在しないから、ほぼ完全に存在しないと言う方が正確だ。たった5年の間にな。こんなことは、世界史でもまず例がないだろうね」

 男性は吐き捨てるように答えた。やがて電動バイクは湖の見える公園の横に停まり、私はシートから降りた。ごり惜しく、連絡先を交換しようと思ったら、相手が先に口を開いた。

「連絡先、本当は交換したいけど、色々考えてやめておこうと思う」
「それは僕が外国人だから? リスクがあるってこと?」
「うん、まあそうだな」

 ポケットに突っ込んでいた文庫本に、レシートが挟まっているのを思い出した。

「紙切れ一枚渡すぐらい、いいよね?」

 私は急いで名前と携帯番号、微信ウィーチャットのアカウントをメモして相手に手渡した。この瞬間も、どこかのカメラが私たちの姿を捉えているだろう。大丈夫だろうか。何か言われたら、「相手のスマホの電波が悪かったから、紙を渡すことにした」とでも言えばいいだろう。

 気づけば、いつも警察に尋問された時の言い訳を考えるのが習慣になっていた。もううんざりだ。そう気がついた瞬間、私は自制するのが嫌になり、強い口調で相手に詰め寄った。

「おかしいと思わない? 日本人とウイグル人が連絡先を交換するだけで、私たちが友達になろうっていうだけで、どうしてこんなにびくびくしないといけないんだよ!」

 男性は無言で斜め下の地面に視線を運び、呟いた。

「ひとりふたりがどう頑張ったって、世の中は変わりゃしないんだよ」

 すぐにスッと顔をあげた。

「さあ、俺はもう仕事に戻らないといけないから。じゃあまたどこかでな」

 人目をはばかりながら急いで交わした握手は思いのほか強く、今も右手のどこかにその感触が残っている。

20〜30年でウイグル語は消える

 翌日、タクシーで市内を移動していた際、運転手とこんな会話をした。

「これってカメラですよね。今の車内の様子も、録画されているんですよね?」
「ええ、そうですね」
「会話は録音されてませんよね?」
「常に録音されてるわけじゃないけど、聞こうと思えば彼らはいつでも聞けるんですよ」
「彼らっていうのは、会社の人のことですか?」
「ええ。適当に聞いていると思います」
「必要があれば、政府の人も聞けるんですよね?」
「そうですね」

 それまで、タクシーの車内は密室とばかり思っていた。車内を録画されることはあっても、音声までは取られていないと思っていたのだ。

 常に聴取されていないとしても、聞かれている〝かもしれない〟という状況は、車内での会話に確実にブレーキをかける。バイクで二人乗りをした若者が言っていたように「ここなら大丈夫」なんて場所は、ないと思ったほうが安全なのだろう。自分や家族の身を守るには、余計なことは言わないのはもちろん、考えることすら危険だ。新疆では、きっと誰もがそう思っている。

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