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ニホンブンガクシ 日本文学私 #1 「河童に目覚めて」(アンナ・ツィマ)

プラハ4区に生まれて

 小説とは不思議なものだ。
 スラヴ文学者のぬまみつよしは、外国の文学を読むことの意義は、「こんなにも同じなんだ」という思いと「こんなにも違うんだ」という思いを行ったり来たりすることだと述べている(『それでも世界は文学でできている』)。それは文学に限らず、異文化に出会った誰もが一度は体験したことがあるだろう。ただし、異文化や海外の文学に長く浸るうちに、昔驚いたことも日常茶飯になる(チェコ人は“日常のパン”と言う)。

 そのため私は、イベントなどで読者から「日本で何に一番驚きましたか」と聞かれると、いろいろな驚きを経験したはずなのに頭の中が真っ白になり、何一つ思い出せない。帰り道の電車でやっと、昔驚いたことが徐々に浮かび上がってくる。小豆のアイスクリームなんてありえないと思ったこと、真夜中に初めて地震を体験したこと、初体験の梅雨や、畳にカビが生え出したことに気づくまで日本の埃は緑色だと思っていたこと、日本人はゴミ分別に厳しいのにスーパーではパプリカ一個一個がビニールに包まれていること、「親知らず」という言葉…。それらは湖を埋め尽くすほど多いが、湖を毎日泳いでいるうちに、驚きは「ああ、なるほど」に溶けてしまう。それでも、たまに思い出すのも大事かもしれない。

 私は、絵葉書にあるようなプラハの綺麗な風景と違い、共産主義政権下で建設されたプラハ4区の醜悪な住宅地に生まれた。幼い頃から(父の影響を受け)文学好きだった。私の部屋はガレージの上だったので、冬は他の部屋より寒かった。その部屋に引きこもり、小説の世界に逃げていた。ある日、緑色の表紙に白いローマ字で「Rjúnosuke Akutagawa」という不可解な字の列が印刷された短編集を手に取り、「河童」を読んだ。つまり私を日本文学へ導いてくれたのは妖怪だった。そこで日本という異国を理解するため、私はまず「河童」を理解する必要があると思い込み、河童に熱心な興味を抱いた。

カエルの顔に19世紀の紳士服

 実は、チェコにも河童のような妖怪がいる。チェコ語ではヴォドニーク(Vodník)と言う。河童とは共通点が意外と多いが、もちろん異なる点も少なくない。伝説によれば、ヴォドニークは人間ほど背が高く、髪と肌が緑色で、魚と話せる上、カエルや魚に変身できるという。人間の形になると、髪にカラフルなリボンを絡ませ、トップハットを被り、湿った燕尾服の端から水滴が滴っている。燕尾服の端が乾いてしまったらヴォドニークは亡くなると言われている。現代のテレビや童話で可愛らしく描かれたヴォドニークがよく見られるのだが、元々は人を水中に引きずって溺れさせて殺す残酷な妖怪だった。殺した人の魂を蓋つきのティーカップに入れてコレクションに加える。もしカップが割れれば、大事に集めた魂は逃げて自由になるので、ヴォドニークはティーカップのコレクションを必死に守っている。

 19世紀のボヘミアの詩人、民俗学者カレル・ヤロミール・エルベン(1811–1870)は、ヴォドニークが人間の魂を集めるように、ボヘミアの各地を訪れては民話を集め、その民話を詩の形で語り直し、『詩の花束』(チェコでのタイトルは単に『花束』)という詩集を編んだ。それは現在、チェコ人なら誰もが知る詩集である。その中の一つか二つの詩は国語教科書にも載っており、チェコの子供たちに一生もののショックを与えつづけている。それは〈なくなったお母さん〉〈子供を誘拐する妖怪〉など、実に恐ろしく、その衝撃を増す美しい文体で綴られた詩だからだ。

「ヴォドニーク」という詩もある。そこには、ヴォドニークから逃げた人間の花嫁に復讐するため、二人の間に生まれた子供を殺す場面が生々しく描かれる。小学校で読まされた後、私は水に入るのを恐れ、お風呂やプール、さらには蛇口をひねることさえ怖くなった。このような経験をした私が、14歳になると芥川龍之介の「河童」に夢中となって潜り、ヴォドニークの遠い親戚である河童たちに深い関心を抱くようになるとは思わなかった。

 芥川の「河童」を読む日本人の読者は、意識に深く刻まれた伝統的な河童のイメージを浮かべるのが当然だと思う。しかし、チェコ語訳の「河童」には挿絵がなかったので、14歳の私は作中の描写と自分の想像力に頼るしかなかった。しかも、翻訳者は〈河童〉という日本語を使わず、チェコ人の読者を引きつけるためか〈ヴォドニーク〉を用いた。故に、〈河童〉と〈ヴォドニーク〉の存在が妙に混じり合い、私は結局、お皿を被っている日本の河童より、カエルの顔に19世紀の紳士を思わせるトップハットと燕尾服姿の緑色の小男のような河童を想像してしまった。今思えば、このような文明開化的な河童は、芥川の描写から案外、遠く離れていないような気もする。日本のカエルの鳴き声は「ケロケロ」と表現されることが多い。一方、芥川が作った河童語「qua, qua」はチェコのカエルの鳴き声「kvá, kvá」の方に近い。彼はわざと西洋的な様子を書き入れたのではないか、とさえ考えられる。

お正月は「何となく生き延びた」

 私も、あらゆるティーンエイジャーの女の子と同じように、重要なものを集めた秘密の宝箱を部屋に置いていた。私の部屋にあった宝物をまとめると、日本の新聞から切り抜いた記事(私にとって貴重な日本の字がびっしり詰まっており、いつか読めるようにと大切に保管していたが、後ほど経済欄だと知ってがっかりした)、古い日本語教科書、扇子、そして父がシンガポールでお土産として買ってくれたお箸。いつか日本に行きたいという願いをこめて、赤に塗った部屋の壁に大きな〈夢〉という字を書いたことからも、私がどれほどの日本マニアだったか、想像するのはたやすいだろう(江戸川乱歩の「赤い部屋」のことは当時知らなかった)。

 日本への憧れがいつ、どこで生まれたのか定かではないが、10歳の頃、脚本家の父と一緒に黒澤明の『七人の侍』や『酔いどれ天使』を見てから、日本を意識しはじめたのは確かだ。中学生になって、アニメや漫画の世界を発見し、私は理解できない遠い言葉の響きに魅力され、日本語を勉強しようと決心した。〈日本愛好症状〉からの回復が不可能と判断した父は「そんなに日本が好きなら日本文学を読んでみたらどうだい」と言った。そして本棚をしばらく探った後、芥川龍之介の短編集を取り出した。芥川龍之介が実家の本棚で唯一の日本人作家だったことは偶然ではない。父は黒澤の『羅生門』が芥川の短編に基づいて作られた映画だと知り、比較するためそれを手に入れたに違いない。

 ある男が偶然に河童に出会い、河童を追いかけて頭を打った後、河童の国で目覚める。そして、河童語や河童の文化を学び、河童と一緒に暮らし始める。そのストーリーが私を興奮させた。

 語り手が頭を打った狂人、つまり全く頼りない語り手であるということを、私はごく自然に受け入れた。私は幼い頃から短編を書いたり、架空の人物を作り出したり、彼らと夢の中で出会ったりしていた、そのため「河童」の主人公は私にとって狂人でもなんでもなく、近しい存在だったと思う。語り手が河童の国で経験した冒険が嘘か真かといったことが、私にとってどうでもよかった。

「河童」は日本の大正・昭和初期の社会のたとえとして描かれている。日本の知識がまだ浅かった14歳の私が、「河童」をどれほど解読できたかはわからない。しかし、読書家の父から訓練を受けたので、少なくとも人間の社会の隠喩として読めていたと思う。

「河童」の語り手が河童と親しくなり、その文化、習慣、日常生活の特徴を読者に紹介してくれるのだが、そこで私の注意を惹いたのは、芥川が河童のユーモアセンスについて書く部分だった。「一番不思議だつたのは河童は我々人間の真面目に思ふことを可笑しがる、同時に我々人間の可笑しがることを真面目に思ふ――かう云ふとんちんかんな習慣です」と語り手が述べている。

 外国人と話す際に最初に驚かされるのは、おそらくユーモアセンスの違いだろう。例えば私は大学時代、Mという日本人の友達ができた。彼女の前で中・東ヨーロッパの皮肉に溢れるダークなユーモアセンスを披露すると、笑ってくれるどころか、むしろ心配そうな目で私を見つめながら「アンナ、大丈夫?」と不安げに尋ねられることが多かった。

「お正月どうだった」と聞いたら、日本人ならば「良かった!楽しかった」とか正直な「疲れたよ」が返ってくる。同じ問いに関しチェコ人ならば、「何となく生き延びた」と答える。すると、日本人には「え? 大丈夫?」といった怪訝な反応をされるだろう。

 昔、Mは「どうしてアンナちゃんと結婚したの?」と居酒屋で、やはりチェコ人の夫に聞いた。「好きだから」といった答えのバリエーションを期待したかもしれないが、夫はとても険しい顔つきで「お金のため、だった」とポツンと答えると、Mは、顔は訝しげに翳らせて、「ほんと?」と漏らしたことを覚えている。そのとき、Mは夫の冗談を本気で受け止めたと思う。私たちはどう見ても貧乏な学生夫婦だったので、夫の冗談は伝わるだろうと思ったから、Mの困惑に少し驚いた。

 結局のところ私も夫も、日本語で話すとき、まったく別人になり、違うコミュニケーション方法に切り替える必要があることがわかってきた。これも外国語学習の一部であろう。つまり「彼等の滑稽こっけいと云ふ観念は我々の滑稽と云ふ観念と全然標準をことにしてゐるのでせう」が事実であり、初対面で異文化の人と打ち解けたいからといって、自国で通用している冗談を無闇に使うのは避けた方がいいのだろう。

現在筆者は東京在住。なお本作は、筆者が日本語で描いたエッセイである。

◎筆者プロフィール
1991年、プラハ生まれ。カレル大学哲学部日本学専攻を卒業後、日本に留学。『シブヤで目覚めて』(Probudím se na Šibuji)で2018年にデビューし、チェコ最大の文学賞であるマグネジア・リテラ新人賞、イジー・オルテン賞、「チェコの本」文学賞を受賞。

邦訳は河出書房新社(阿部賢一・須藤輝彦訳)

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