佐木理人さん「障害は“持つ”か、“ある”か」ルポ 読書百景 #3後編
点字毎日の記者である佐木理人さんが、毎日新聞社に入社したのは2005年のことだった。高校を卒業後、一浪して外国語大学で英語の文法を専攻した佐木さんには、研究者の道に進みたいと考えていた時期もあった。だが、大学院の修士課程でその道は諦め、社会に出てからは障害者の地域生活を支援するカウンセラーや、大学・専門学校で点字の授業の講師をするようになったという。(取材/文・稲泉連、撮影・黒石あみ)
触読校正の面白さ
私は30歳を過ぎるまで、いくつかの仕事を掛け持ちしていました。そのなかで、点字毎日の触読校正の担当者が体調不良のとき、何度か手伝ったことがあったんです。そんな縁もあり、あるとき当時の編集長が前の職場にやってきて、点字毎日で正式な触読校正者として働かないか、と誘われたんです。
私は大学院生の時に結婚していまして、ちょうどそのときは二人目の子供が生まれる時でした。いろいろ迷いはありましたが、もう30歳を超えたし、そろそろ一つの会社で安定して働くべきだと周囲からも言われ、編集長からの誘いを受けることに決めました。
触読校正という仕事は、週に一度発行される点字毎日に掲載される原稿の点字を読み、誤字や脱字、表現を修正していく仕事です。とにかく点字を読み続けるわけですから、1日仕事をすると大変疲れます。だから、家に帰ってからはもう点字を触りたくない。そんなわけで、この仕事をしてから私の娯楽としての読書は、いよいよ耳から聞くのがほとんどになっていきました。
触読校正の面白さ――これは点字毎日の社会的意義の一つだと思いますが――は、健常者のために書かれた文章ではなく、初めから視覚障害者のために書かれた文章を校正するところにあります。よって、触読校正では指で読む障害者にとって読みやすい表現に、文書をあらかじめ修正していくことができるわけです。
例えば、点字には漢字がありません。点字は仮名だけの世界であるため、「今週発売される製品」という文章があった場合、「こんしゅう」が「この1週間」という意味なのか、「この秋」(今秋)という意味なのかが触読だけでは分からないわけです。単に誤字や脱字をチェックするだけではなく、読み手が視覚障害者であることを念頭に、表現をあらためていくことが触読校正には求められるのです。
それから、私がいつも記者の人たちにお願いしていたのは、「障害を持つ」という表現を「障害がある」に変えてほしい、ということでした。これは私のこだわりなのですが、障害は本人の意思によって、持ったり持たなかったりできるものではありません。なので、当事者の一人としてそんな表現に出会うと、どうしても気になってしまうんですね。実際に読者からもそうした声が寄せられていました。だから、他で書かれた文章は除いて、点字毎日に載る文章については、記者の方たちにそうお願いしていたのです。
駅のホームの事故で大けがを負って
そうして触読校正の仕事を続けてきた佐木さんは、しばらくして記者の仕事も兼務するようになった。入社後しばらくして編集長から「コラムを書いてみないか」と提案され、日頃から視覚障害当事者として思うことを書いてみようと思った。その後、視覚障害者の乗馬体験のイベントや愛知万博などを取材する機会を得て、触読校正の合間に記者として記事を書く機会が増えていったという。
取材では点字の資料を指で追いながら、相手に話を聞くことも多い。インターネットとデジタル化の発展によって、資料のPDFやウェブサイトの文章の読み上げがパソコンでできるようになったことも、記者として仕事をする中で実感してきたという。
記者の仕事を始めて実感していったのは、点字毎日に視覚障害者の当事者が関わってきた意味の大きさでした。おそらく目が見える人たちだけで作っている新聞であれば、100年も続かなかったでしょう。視覚障害者であるからこそ、同じ当事者の気持ちも分かりますし、浮かび上がってくる社会の課題も多いのです。
また、目の見える人たちにとっても、この新聞を意味のあるものにしていきたい、という思いが私にはあります。当事者が関わっているからこそ、目の見える人が気づかなかったり、知らなかったりする世界を伝えることができると思うからです。
私は大学生の頃に駅のホームの事故で大けがを負ったことがありました。その経験から、視覚障害者の移動環境や事故といったテーマを、記者としてずっと追いかけてきました。また、ICT(情報通信技術)関係のトピックや中途失明の方の就労問題など、取材する分野はいくらでもあります。さまざまな現場に出かけて体験ルポを書き、読者にその様子を伝えることにもやりがいを感じています。
今から振り返れば、私は視力を失いつつあった小学生の頃から、物語が大好きでした。特に昔話を聞くことが楽しく、父親がテープに吹き込んでくれたお話をよく聞いていたものです。
目が見えなくなり、まだ点字も覚えきれていない頃、私は空想の世界に支えられていました。そんななか、自分でも昔話を考えて書くようになり、それを読んだ母が喜んでくれたり、先生に褒められたりするのが嬉しかった。ほとんど目が見えなくなり、一人で歩けなくなった中学生のときは、将来の自分ができる仕事が思いつきませんでした。そんなとき、昔話を褒めてくれた先生から、「将来、どんな仕事がしたい」と聞かれ、「文章を書く仕事かな」と何となく答えたたことも覚えています。
目が見えなくなった私を「読書」につなぎ留めてくれたのは、「音」と「点字」、そして、本を読んで何かを知りたいという「好奇心」でした。いま、実際に自分がものを書く仕事をしているのも、 「読書」という行為と繋がり続けた結果だったというふうにも思いますね。
音訳とアニメの中間くらいの雰囲気
佐木さんは現在、毎日新聞の論説委員の一人として、社説を担当し、コラムも書いている。近年は点字新聞向けに書いた記事が、毎日新聞の社会面などにも掲載されるようになった。
「目が見えない人が書いたルポや記事には、目の見える人にとっても面白い気づきがある。点字毎日と毎日新聞の連携が増えたことを、嬉しく思っています」
また、「読書」について言えば、最近ではサピエ図書館からダウンロードするDAISY図書だけではなく、アマゾンの「オーディブル」などのオーディオブックでも本を聞くようになったという。
普段の読書や資料読みは、テキストデータをパソコンで読み上げるのが主なやり方です。ただ、これが娯楽としての読書となると、パソコンによる読み上げやボランティアの方々による音訳は、やや平板に感じることもあります。その意味で俳優さんが朗読するオーディオブックは臨場感があるし、何か作業をしながらでも気軽に面白く聞けるところが気に入っていますね。
私はネットフリックスなどでアニメをよく耳から聞くのですが、アニメはいろんな音が出てくるので少し疲れることもあります。オーディオブックを聞いている時の感覚は、音訳とアニメの中間くらいの雰囲気、と言えるでしょうか。
それから、オーディオブックを使うようになって嬉しかったのは、家族と一緒に「読書」という体験を共有する機会が得られるようになったことです。同じ本の朗読を私と妻、娘が聞いて、感想を言い合えるようになった。「読む」という行為を一緒のツールで行うことで、読書体験を共有できるきっかけが作れたのは嬉しいですね。
私は確かに紙の本を直接読むことはできないけれど、指で読んだり、耳で読んだりと、いろんな形で読書を続けてきました。「書く」という仕事をするようになったのも、「読みたい」という好奇心を持ち続けたから。そのなかで読書のやり方の幅を広げ、読書という行為を続けてきたことが、記者という仕事をしている「いま」の自分を確かに支えていると思えるんです。
さき・あやと/1973年、大阪市生まれ。中学生の時に失明。2005年、毎日新聞社入社。点字毎日部で点字を指で読む触読校正を担当する傍ら、取材・記事を執筆。東日本大震災や熊本地震で被災した視覚障害者や、駅ホームでの視覚障害者の転落事故現場などを取材してきた。コラム「心の眼」担当。
◎筆者プロフィール
いないずみ・れん/1979年、東京都生まれ。早稲田大学第二文学部卒業。2005年に『ぼくもいくさに征くのだけれど 竹内浩三の詩と死』で第36回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。主な著書に『復興の書店』『「本をつくる」という仕事』『アナザー1964』『サーカスの子』など。