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愼允翼さん「本は”孤独”に読みたいけれど」ルポ 読書百景 #4前編

100人いれば100通りあるはずの読書のかたちーーこの連載は、ノンフィクション作家・稲泉連氏が、インタビューによってそれを描き出す試みです。
◆目指せインタビュー100人! 本稿で、4/100達成!

「本を読む」という行為の持つ意味

 東京大学大学院でフランス文学を専攻、思想家のジャン=ジャック・ルソーなどの研究をしているしんさんは、難病の「脊髄性筋せきずいせいきんしゅくしょう(SMA)」を患っている。この病気は全身の筋力の低下によって体が動かなくなるもので、普段の生活では24時間の介護が必要だ。彼は右手の先以外が自由に動かせないため、日常生活では20人ほどの介助者がシフト制で彼の介助を行っている。

愼さんの読書の風景。
普段は「書面台」に置いた本を介助者にめくってもらうという

 その日、愼さんへのインタビューは、陽当たりのよい屋外のテラス席で行われた。彼には2人の男性の介助者が付き添い、ときおり体位の転換をしたり、本人の求めに応じてペットボトルの水を口に含ませたりしている。では、そんな愼さんは日頃からどのように読書をしているのだろうか。

 東京大学に在籍する愼さんは、著作権に関する法的文書に署名をした上で、「大学の附属図書館にリクエストを出せば、どんな本でも電子化をしてもらえるんです」と、言う。

「それこそ大学に入った頃は、ひと月に40~50冊くらいのリクエストを出していました。そのデータをパソコン上のPDFで読むことが、いまの僕の読書の基本的な形になります」

 とはいえ、紙の本を全く読まないわけではないそうだ。
「ちょっとやってみましょうか」
 そう言うと彼は、「Tさん、本を出して」と介助者の男性に声をかけた。
 鞄から出されたのはアメリカの神学者・パウル・ティリッヒの『生きる勇気』(平凡社ライブラリー)。Tさんは慣れた手つきで本を開き、愼さんの目の前に差し出した。

「こうやって本を人にページをめくってもらい、線を引きたいときもその都度言うわけです」

 ただ――と彼は続けた。
「僕にとって難しいのは、『本を読む』という行為の持つ意味を、そのなかで考えてしまうことですね。というのも、ヘルパーさんと本を読んでいると、どうしても喋りたくなってしまいます。普段の生活に他者が必要なので、思っていることがぜんぶ口から出てしまうんですよ。
 でも、読書というのは本来、孤独に自分と対話をしながら行うものでもあるでしょう? 特に学問をしている僕には、自分の中で言葉を静かに磨いていく時間が必要なのだけれど、なかなかそういう『読書』ができないのが悩みの一つです。孤独に本を読むということを、僕のような障害のある人間はどうやって実現すればいいのか。どうすれば本の良い読み方ができるのか。まだ僕自身にもよく分かっていないところがあります」

 そう語る彼は質問に答えるとき、ときおり「ちょっと考えますね」と言い、電動車椅子を操作して席を離れた。そして、しばらくテーブルの近くを動き回って戻ってきてから、自身の考えを再び話し始める姿が印象的だった。それは、彼が物事を考える際のスタイルであるに違いなかった。


武将173人を丸暗記

 僕は1歳5カ月の時にSMAと診断されました。子供の頃は座位の姿勢ができ、右手だけは腕全体を使えば動かすこともできたのですが、当時から「本のページをめくる」という動きは難しかったですね。

 だから、本を読むためには両親に手伝ってもらうか、読み聞かせをしてもらう必要がありました。千葉県の実家にいた当時はヘルパーさんもあまりいなかったので、本が読みたいときにいつでもページをめくってもらえる環境ではなかったんです。そんなふうに身体の不自由があったから、大学生になるまで勉強以外で本を読むことはほとんどなかった。

 それでも数少ない読書体験の中で、今でも大事にしているのが『三国志群雄173人採点データファイル』(新人物往来社)という本です。これは三国志の武将のガイドブックで、内容を暗記するくらいに繰り返し読んだ一冊です。この本の各ページには武将の解説が載っていて、図や情報が細かく書かれています。ページをめくらなくても一人ひとりのデータが見開きで完結しているので、眺めるように本を読むことができた。それこそ全てのページを暗記するくらいに読んだ本です。

 この本を買ってくれたのは叔父でした。僕が4歳の頃のことです。身体の動かせない甥っ子とどうやって交流するかを、叔父なりに考えてくれたのでしょう。それで、三国志が好きだった叔父は、まずテレビゲームを僕と一緒にしようとしてくれたんですよ。有名なシミュレーションゲームで、これなら障害のある僕とも一緒に遊べる空間や時間が作り出せると叔父は思ったわけです。

 でも、いきなり三国志のゲームをやり始めても、4歳の僕にはさっぱり分からない。だから、まずは本を渡して勉強させようとしたんでしょう。僕の方も一緒にゲームをやるうちに、「この武将のことを知りたい」という気持ちが湧いてきました。そこで、「〇〇のことを知りたい」と武将の名前を言うと、叔父さんが該当のページを開いて解説を読んでくれました。そのうち、僕はいつも傍らにこの本を置いて、暇さえあれば眺めるようになっていったんです。平仮名も漢字もそれで自然と覚えていったんですよ。

 今でもこの本は大好きで、武将の名前を言ってもらえれば、すぐに内容を答えることができるくらいです。

 それから、小学生の頃に夢中になったのが、江戸川乱歩の文庫本の「明智小五郎」シリーズです。名探偵・明智小五郎と小林少年を団長とする探偵団が、怪人二十面相を相手に様々な推理を繰り広げる。これは本屋さんに行ったとき、親に頼んで一冊、二冊と買ってもらい、最終的にはほぼ全巻をそろえました。このシリーズを夜、寝る前に母親に読んでもらうのが好きだったことを覚えています。

 結局、僕の子供の頃の読書体験というと、せいぜいそれくらいのものなんです。今でこそ大学で多くの本を読んでいますが、決して昔からいろんな本が読めた人間ではなかった。

「ドラゴン桜」で東大を目指す

 その代わりに子供の頃からすごくたくさん見ていたのが、ドラマやアニメですね。本に対してよりもドラマやアニメを好んだのは、僕の場合はやはり映像が受け身のまま楽しめるメディアであったからです。僕が「本」を読むためには、読むための姿勢を誰かに作ってもらう必要があります。それに、読書は線を引いたりメモを取ったり、アクティブな作業を強いられるものでしょう?

 世の中には目を開けているだけでもつらい人や、聴覚に障害のある人もいます。そうした人であっても、ドラマやアニメはただ聞いたり、見たりしていればいい。体を動かせない僕にとっては、「向こうから迎えに来てくれる」というメディアでした。だから、子供の頃はいつも親にDVDを買って欲しいとねだっていました。


 愼さんは電動車いすで保育園に通い、小学校は地元の普通学級に進学した。体が大きくなるにつれて、右手を動かすこともできなくなった。病状が進行する中で、小中学校の時は「自分の障害を受け入れられず、とても苦しんだ時期もありました」と彼は振り返る。中学生になるとクラスメートも彼を遠巻きで見るようになり、学校が居場所ではなくなっていったからだという。

 その頃、愼さんが心のり所にしたのが、自宅で家庭教師に勉強を教わる時間だった。そして、「東大」を目指して勉強を始めたのは、同名漫画が原作であるテレビドラマ「ドラゴン桜」の影響だったそうだ。


 阿部寛さんが主演を務める「ドラゴン桜」は、行き場のない高校生が「勉強」をきっかけに、自分のかじを自分でとるようになっていく物語です。ドラマを最初に見たのは小学校の3年生の頃だったと記憶しています。このドラマに出会って、障害のある自分の身体を受け入れられるようになった、という思いが僕にはあるんです。

 小学校の3、4年生の頃、僕は障害のある自分が「みんなとは違うんだ」ということを強く意識し始めました。学校でも居場所を少しずつ失っていって、「自分はこれからどうしたらいいんだろう」とすごく思い詰めていた時期です。

 だから、当時の僕には夢中になれるものが必要だったのだと思います。そんななか、「ドラゴン桜」を見て、「これだ」と子供心に思った。登場人物たちのように東大を目指してみる。そうすれば、この満たされない気持ちが満たされ、人生が変わるんじゃないか。そう思ったんです。

  いま、僕は東大でフランス思想や哲学者ジャン=ジャック・ルソーを研究していて、修士論文を書くのに四苦八苦しています。勉強の世界では、どこまで進んでも満たされることはありません。その意味では、東大に行けば心が満たされると思った当時の気持ちは、一つの勘違いに過ぎなかったのだと思います。でも、その「勘違い」こそが、小学校の時から18歳になるまでの自分を支えたんですね。(後編へ)

しん・ゆに/1996 年、千葉県生まれ。東京大学文学部人文学科哲学専修課程卒。東京大学大学院人文社会系研究科フランス語フランス文学研究室修士課程。専門はジャン= ジャック・ルソーおよび18 世紀フランス思想。

◎筆者プロフィール
いないずみ・れん/1979年、東京都生まれ。早稲田大学第二文学部卒業。2005年に『ぼくもいくさに征くのだけれど 竹内浩三の詩と死』で第36回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。主な著書に『復興の書店』『「本をつくる」という仕事』『アナザー1964』『サーカスの子』など。

撮影 藤岡雅樹

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