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野口武悟さん「なぜ”自分事”として研究するのか」読書バリアフリーと私 #1

本連載は、「読書バリアフリー」をライフワークとする人びとによるリレー・エッセイです。この分野に関心を持つにいたった出来事、これまでの実践や今後の課題について書き下ろしていただきます。初回は、図書館サービスの視点から障害者との関わりを研究している専修大学文学部の野口武悟たけのり教授による寄稿です。

「偽善者」と切り捨てる思考

 私は読書バリアフリーの研究者である。「野口さんは、なぜ読書バリアフリーを研究しようと思ったのですか」とよく聞かれる。「図書館や出版に関する研究者はたくさんいますが、読書バリアフリーの研究とは珍しいですね」と言われることもある。

 私が読書バリアフリーの研究を始めたのは、今から25年くらい前のこと(当時は、読書バリアフリーという言葉さえなかった)。そのきっかけは何だったのだろう。いい機会なので、記憶を手繰たぐり寄せることにする。

 私は小学校入学の時点で、すでにメガネをかけていた。幼少期の私自身に視力が弱いという自覚はまったくなかった。それに気づいたのは就学時検診の視力測定だった。それから親に連れられて、近くにある大学病院の眼科へ。そして、メガネ生活になったのである。

 小学1年生でメガネというのは、同級生のなかでも私くらいだった。相当珍しかったのか、同級生から「メガネザル」とあだ名を付けられて、からかいのターゲットになった。もちろん、嫌だった(面倒くさいという気持ちだったかもしれない)。好きでメガネをかけているわけではないのに。一方で、動物や植物などの図鑑を学校図書館で読むのが好きだった私は、「メガネザルってかわいいのに、みんな知らないのかな」と妙に客観的に捉えていたりもした。

 学年が進むにつれて、同級生のなかにメガネをかける人がちらほら出てきて、いつの間にか「メガネザル」と言われることはなくなった。メガネをかける人が増えたことで、その異質性が薄まったのだろう。

 中学校を経て、地元の公立高校に進んだ。今では珍しい公立の男子校だった。いわゆる進学校と言われる学校。でも、学校生活も、授業も、それほど大学受験を前提にした感じは無くて、結構のびのびとした高校時代だった。修学旅行先が、福井の永平寺や東尋坊とうじんぼうだったことも、今思うとユニークだった。

 高校3年生になると、否応なく受験を意識し始める。同級生の半数以上は理系志望。私は文系の学科を漠然と考えていた。高校に列車通学をしていた私は、乗車中に吉村昭の小説を読んで過ごすことが好きだった。父の書斎にあった『高熱隧道こうねつずいどう』が吉村作品との出会いだった。作品の内容はもちろんだが、吉村の書く文章にほれ込んだ。「自分もこういう文章を書いてみたい」と強く思った(今も思っているが、実現できていない)。

 こう書くと、日本文学科が第一志望だったかのように思うかもしれないが、そうではない。第一志望は歴史学科だった。もちろん、吉村の影響である。歴史を学んで、いつか吉村のような小説を書いてみたいと妄想していた。第二志望は揺れ動いていたが、第一志望とはまったく毛色の違う福祉が学べる学科を意識していた。それは、私がメガネをかけている(視力が弱い)からという理由ではなかった。

 通学中の列車内で、こんな出来事があった。高校生で満員の車内に途中駅から杖をついた足の不自由な高齢女性が乗ってきた。当然、座席は高校生たちで埋まっている。私はドア近くに座って本を読んでいたが、高齢女性に気づいてとっさに立ち上がり、「この席どうぞ」と席を譲った。そのとき、周囲にいた他の高校の男子生徒から「偽善者ぶって」という声が聞こえてきた。私に投げかけられた言葉だと一瞬気づかなかったが、それに気づいたとき、私は愕然とした。そして、人にやさしくすることを「偽善者」と切り捨てる思考については怒りや呆れを覚えた、というよりは率直にいって、理解が追いつかなかった。恥ずかしげもなく、人々の意識や社会のあり様を変える仕事がしたいと大それた思いが頭をよぎった。これが、福祉が学べる学科を意識した理由である。

「障害者と図書館のかかわり」を知るものは

 結局のところ、大学受験は、歴史学科と福祉が学べる学科の両方にチャレンジした。残念ながら、第一志望の歴史学科はことごとく玉砕……。国立大学教育学部の障害児教育コースに合格できたので、そこに入学した。

 当時の障害児教育コースに同級生は30人くらい。そのうち、男子は私ともう1人のあわせて2人だけ。男子校からまるで女子大に進学したかのような状況だった。最初は、女子学生にどう話しかければいいのかさえ分からず、「先が思いやられる」と正直思った。だが、それはゆうで、一緒に授業を受けているうちに、同じ分野を学ぶ仲間として、違和感なく付き合えるようになった。

 授業やサークル、アルバイトを通して、障害当事者とのたくさんの出会いがあった。授業の一環で筋ジストロフィーの人や知的障害の人がゲスト講師で登壇したり、養護学校や障害者施設に見学に行ったり。サークルは、同級生に誘われて、自閉症の子どもたちと休日に遊園地などに一緒に遊びに行く活動をするところに入った。保護者に休息の時間を提供するレスパイトケアの意味合いを持つ活動だと先輩に教えてもらった。アルバイトは、先輩から紹介された知的障害者施設で食事や着替え、排せつなどの介助の仕事をした。


養護学校での教育実習の一コマ

 障害者は、目が見えない、耳が聞こえない、足が不自由などの心身の障害ゆえに、日常生活や社会生活に困難があると思われがちだし、私もそう思っていた。しかし、実際に多くの障害当事者との出会いから、日常生活や社会生活での困難は、社会や周囲の環境にあるバリア(物理的なバリア、制度的なバリア、文化・情報面のバリア、人々の意識のバリア)が原因であって、バリアフリーが進めば困難は軽減できるということを学んだ(こういう考え方を「障害の社会モデル」といい、今日では主流となっている)。

 大学では、養護学校の教員免許の取得を目指すとともに、司書教諭の資格を取得するために図書館関係の授業も履修した。小学生のころから学校図書館は好きだったので、ついでに資格を取ろうという程度の考えだった。ところが、図書館関係の授業も面白い。図書館の魅力にも惹きこまれていった。

 ただ、授業のなかで、障害児・者に対する図書館サービスの話が一向に出る気配がない。図書館関係のどの科目の授業でも同じだった。そこで、授業の最終回に思い切って担当教員にたずねてみた。「養護学校の図書室や地域の図書館での障害者へのサービスはどのような状況か教えてください」と。返ってきた答えは、「私はその専門ではないからわからない」だった。でも、こうも続けた。「私の知る限り、障害者と図書館のかかわりを専門に研究している人はいないと思う。興味があるなら、あなたが調べてみたら」。この一言が、読書バリアフリーの研究に進むきっかけになったように思う。

 大学の図書館で著書や論文を調べると、学校や図書館の現場からの実践報告は見つかるものの、本格的な研究はないことがわかった。歴史、現状、障害当事者のニーズ……。

 調べたいことがどんどん湧き出てきて、ワクワクしてたまらなかった。そして、大学院に進んで研究を深めたいと考えるようになった。ただ、どこにどうアプローチすれば研究が進むのかは、この時点ではまったく思いつかなかった。ちなみに、大学の卒業論文では、読書バリアフリーではなく、障害児教育に関する教員免許制度の課題を掘り下げた。

「失われた視野は戻りません」

 大学3年生のころ、私自身にとって読書バリアフリーが切実な問題となる出来事が起こった。9月から始まった養護学校での3週間にわたる教育実習。かわいい子どもたちに囲まれて幸せで充実した実習生活を過ごしていたのだが、突如、私の目に異変が起こった。その日は、晴天のもと、秋の運動会本番に向けて、校庭で予行練習が行われていた。その最中である。急に目が眩しくなって、太陽を見てしまった後の残像のようなものが視野に張り付いて離れなくなったのだ。実際に太陽を見たわけではない。目に痛みがあるわけでもない。でも、すぐに病院に行くほどでもないと判断し、その日も、そしてその後の実習生活も予定通りに過ごした。

 だが、その日以降、左目の中心視野は徐々に欠けていき、教育実習が終わるころには左目の中心視野はほぼ失われた。このに及んでようやく病院へ。手遅れだった。「失われた視野は戻りません。右目も同じ状態にならないように注意してください」。医師からの宣告だった。

 私も、そして医師さえも困惑したのは、原因がわからなかったことである。左目の中心視野をつかさどる黄斑おうはんに変性が生じたことは確認できたのだが、それが突如として生じたのはどうしてなのか。その後、複数の大学病院をたらい回しとなり、原因がわかったのは10年以上も経ってからだった。判明したのは、黄斑裏側の出血のためであり、すでに瘢痕はんこん化しているとのことだった。

 左目だけでは読書が困難になった。読書が難しくなることがいかに辛く、悲しいことなのかを身をもって実感した。読書バリアフリーが切実な「自分事」になったのだ。今のところ、右目の中心視野は失われていないので、まだ目での読書はできる。とはいえ、右目の中心視野が失われたらどうしようという不安は、今も抱えながら過ごしている。この私自身にとっての切実さも、読書バリアフリー研究の原動力になっている。

 大学を卒業し、別の国立大学の修士課程障害児教育コースに進んだ。修士課程では、第二次世界大戦後の盲学校・ろう学校・養護学校(これらをあわせて現在は特別支援学校という)の学校図書館の歴史を辿たどる研究に取組むことにした。1954年に施行された「学校図書館法」では、これらの学校にも図書館は設置義務となっている。にもかかわらず、研究が進まなかったのはなぜなのだろうか。

 歴史を辿るには、図書室に関する記録や文献が必須であり、それらのを見つけないことには先に進めない。調べる中で、1950年結成の全国学校図書館協議会(全国SLA)が、機関誌『学校図書館』を継続発行していること、全国学校図書館研究大会を年に1回(現在は2年に1回)開催し、そこでの報告や議論の内容をまとめた研究集録を作成していることなどが分かった。研究集録を追えば、研究や実践、議論の変遷がつまびらかになるかもしれない。さっそく、国立国会図書館や大学図書館の蔵書を調べたが、研究集録は全部揃っていなかった。そうであれば、全国SLAに直接聞いてみようと電話したところ、事務所に資料室があること、指導教員の紹介状があれば閲覧ができることを教えてもらえた。

 全国SLAの資料室を訪問してみると、私にとっては実に宝の山だった。この資料室との出会いがなかったら、修士課程での研究は行き詰まっていたかもしれない。当時、資料室で資料整理をされていたのは芦谷清さんで、戦後初期からの学校図書館を知る生き字引のような人だった。「この資料室の資料を使って研究してくれるのはうれしい。きっといい研究ができるよ」と芦谷さんは会うたびに励ましてくれた。この芦谷さんが、いま私が勤務する専修大学の元教授だと知ったのはずいぶん後になってからだったが、不思議なご縁を感じた。

 何とか修士論文を仕上げた私は、同じ大学の博士課程に進学した。このときに専攻を障害児教育から図書館情報学に変えた。とはいえ、研究内容は継続することにし、博士課程では第二次世界大戦前まで遡って歴史を辿ることにした。戦前の記録や文献探しは難航し、博士論文が仕上がるまでにいったい何年かかるのか想像もできない日々だった。博士課程3年目のとき、指導教員からの勧めで、大学の教員募集にチャレンジすることになった。まだまだ先のことと思っていたが、「採用までには博士論文を書き上げないとな」との指導教員の厳しくもあたたかな指導と励ましのおかげで、気持ちを切り替え、より一層研究に注力した。

 がむしゃらに博士論文を仕上げ、専修大学に入職したのが2006年のこと。早いものでもう20年近く経とうとしている。専修大学では、同僚に恵まれ、勉学熱心な学生たちに囲まれ、充実した研究生活を送っている。

「読書バリアフリー法」制定から5年

 入職後の研究においては、日本図書館協会・障害者サービス委員会のみなさん、出版社・読書工房の成松なりまつ一郎さんとの出会いが大きかった。日本図書館協会・障害者サービス委員会には、国立国会図書館、公共図書館、点字図書館、大学図書館、学校図書館のそれぞれの現場で障害者サービスを牽引してきた司書たちが集っている。この委員会の末席に私も参加する機会を得た。ここでは、障害者サービスの実態調査やガイドライン作成なども行っており、それらにも携わった。図書館における障害者サービスのいまを知り、これからを展望できるのは、この委員会の活動のおかげといっても過言ではない。

 成松さんは、バリアフリー出版、出版のユニバーサルデザイン(UD)を牽引してきた第一人者である。自ら社長を務める読書工房を通して、バリアフリー出版、出版のUDを実践するとともに、「出版UD研究会」を立ち上げたり、著書を執筆したりするなど研究者としての顔も併せ持つ。研究成果を著書にまとめて社会に発信する重要さを成松さんから学んだ。成松さんには専修大学の講師として授業を担当してもらっている。

 これから私が取組みたいことの1つに、読書バリアフリーに携わる人材の育成がある。先述の日本図書館協会・障害者サービス委員会では、司書など図書館職員を対象とした研修講座は以前から開催している。しかし、いままで、出版関係者やボランティア、読書バリアフリーに関心のある市民など、幅広い人たちを対象として、読書バリアフリーを体系的に学べる機会はなかった。こうした場を創りたいと考えてきた。

 ありがたいことに、文字・活字文化推進機構の主催で、その機会が実現することになった。2024年9月からの「読書バリアフリーサポーター養成講座」の開講である。私と成松さんが監修を務めることになった。第1期となる2024年度の募集はすでに締め切ったが、次年度以降も受講募集する予定なので、読書バリアフリーを基礎から実践まで体系的に学びたい人はぜひ受講していただけると、ありがたい。 

 2024年で、「読書バリアフリー法」制定から5年が過ぎた。また、「障害者差別解消法」も改正・施行され、行政機関だけでなく、出版社を含む民間事業者にも障害者への「合理的な配慮」の提供が義務化されたのも2024年だ。こうした法律の整備は、「本の飢餓」(点字や音声などの本が入手しづらい状態)の解消を目指す国際的な潮流もあるが、読書バリアフリーを求め続けてきた障害当事者たちの地道で粘り強い働きかけの成果でもある。

 ただし、法律の整備は、スタートラインに過ぎない。これからの取組みが重要だ。法律に掲げられた理念や施策は、実現されてこそ、意味を持つ。言い換えると、読書から「誰一人取り残さない」、読書バリアフリー社会の実現である。その実現に少しでも役立つ研究成果が得られるように、今後も研究に励んでいきたい。

◎プロフィール
専修大学文学部教授、公益社団法人全国学校図書館協議会理事長。筑波大学大学院図書館情報メディア研究科博士課程修了、博士(図書館情報学)。専門は図書館情報学(主に、読書バリアフリー、子どもの読書活動、電子図書館等の研究)。著書に『読書バリアフリーの世界:大活字本と電子書籍の普及と活用』(三和書籍、2023年)、『変化する社会とともに歩む学校図書館』(勉誠出版、2021年)、『改訂 図書館のアクセシビリティ:「合理的配慮」の提供へ向けて』(樹村房、2021年)など。