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西村崇(内科医)×ギリシャ・サモス島 「苦しみの連鎖は一人では断てないけれど」紛争地の仕事 #1後編

本連載では、「国境なき医師団」(MSF)看護師にして、『紛争地の看護師』著者である白川優子氏が、MSFの同僚たちをインタビューし、彼らの視点にたって、戦地の恐ろしさや働きぶりを綴っていきます。

「ガザに帰りたい、帰らせてくれ」

 西村そうには忘れられない患者がいる。
 毎日、診察室に来ては泣いていた妊娠4ヶ月の女性だ。シエラレオネから来たという。彼女は性暴力被害者で、HIVに感染していた。経由地のトルコでは投獄され、暴力を振るわれていたのだという。服薬は投獄をきっかけに現在も中断されたままだ。お腹に赤ちゃんを抱えた身でどのように過酷なボートの旅を乗り切ったのだろうか。

 キャンプの収容者に、HIV感染者は珍しくなかったが、いずれも万全な医療は提供されていなかった。彼女のように旅路のどこかで服薬を中断せざるを得なかったり、薬を海で紛失してしまったり、または辿り着く先々の当局に没収されてしまったというケースが多かった。HIVに感染している患者への投薬は一刻も早く再開させなくてはならない。

 だが、サモス島ではその処方ができない。ギリシャの首都アテネなど、大きな都市に移送させる必要があった。彼女に対しては、チーム内の助産師、心理士によるケアを行い、医師である西村は難民申請登録を優先してもらえるよう書類を作成した。さらにソーシャルワーカーと弁護士が法的な側面から、彼女を本土に移送するよう尽力していた。シエラレオネからたったひとりでここまで渡ってきた彼女は、診療所に来てはうなだれ泣いていた。ほぼ毎日姿を現していたという彼女に、西村がしてやれることは少なかった。しかし、彼女にとっては、MSFのチームが唯一の心のよりどころだったに違いない。

モバイルクリニック内での診療風景 MSF提供

 自殺企図、自傷行為もキャンプ内では見られた。ある日、パレスチナ・ガザ地区出身の20、30代の若い男性が人生に絶望をしているから急遽、診てほしいと西村に連絡が入った。その彼は、家族を置いて単身でギリシャに渡ってきていた。このようなケースは珍しくなかった。

 一家の主が先に国を出て海外のどこかで安住の場所を探し、後から家族を呼びよせるというパターンだ。ところが、2023年10月、その彼が家族を残してきたガザで起きたのは、イスラエル軍による容赦ない攻撃だった。一報を受けた西村が彼の元に駆け付けると、目の前にスマートフォンの画面が突き付けられた。その彼は、そのスマートフォンを掲げながらガザに残してきた子どもが殺されたと泣き叫んでいた。そして「ガザに帰りたい、帰らせてくれ、まだ他に残っている子どもがいる」と訴えた。

 だが、国境にまつわる複雑な問題が絡み、今すぐに帰すことはできない。「それならいっそのこと死んだほうがましだ!」「どうにかしてくれ」彼は西村に懇願した。

 MSFの医師として自分に何ができるのか、そして何ができないのか。この事案には、心理士と弁護士を介入させた。泣き続ける彼に「残された家族が無事でありますように」「いつか必ずみんなで会える日が来ますように」そう願うしかなかった。

「なぜ診てくれないんだ!」

  日々、膨れ上がる難民に比例するように、クリニックにも多くの人びとが押し寄せた。全員を診ることなど不可能だった。医師は西村と、フランスから来たアミンの2人しかいない。そのうえ、キャンプを取り締まる地元当局の厳しい警備のなか、西村たちのチームがキャンプ内での滞在を許されるのは夕方までと限られていた。時間になればまだ待っている患者を置いてでもキャンプを去らなくてはならない。また、新たな難民ボート上陸のホットラインが入れば、西村かアミンのどちらかが診療の手を止め、駆け付ける必要があった。

「重傷者や緊急治療を優先させてください!」

「できるだけ頑張りますが、全員は診れないかも知れません」

 押し寄せる波に、メガホンでこのような通達を出しながら、トリアージ(優先順序づけ)の末に風邪や軽症の人には明日来てもらうよう促すこともあった。風邪だって立派な疾患だ。特にキャンプ内の劣悪な生活環境では、軽症が重症に発展しやすい。こんな日が続くと、次第に人びとも苛立ってくる。ただでさえ、異常な生活環境にいるのだ。

「なぜ診てくれないんだ!」

「薬が切れる前に来るように言ったのはそっちだ」

 責めてくる患者たちを目の前に、自分だって全員を診たい、医療が必要な患者に、一対一の診療を提供したいのだ、という声を心の中で押し殺した。

 ある日、医療物資を管理している倉庫の窓が割られ、荒らされるという事態が起きた。呆然とした。きっと、そこまでしてでも薬や医療物資が必要だったのだろう。きちんと全員を診てあげることができていたら――。

 診療の順番を巡って大声での喧嘩が始まり、危なくて診療を中止する日もあった。届きにくい場所にこそ医療を届けたい。そう思い公衆衛生学を学び、MSFに参加した。それなのに、目の前の現場は膨れ上がる患者の数と、絶対的な人手不足だ。理想と現実のギャップに西村はストレスを募らせるようになっていた。

 もちろん、苦しいのは彼だけではない。看護師、助産師、心理士らも、心身ともに限界にあった。

ある朝の光景

 西村たちのチームでは、どんなに忙しくても決めていたことがあった。それは、1日に2回、診療前と後にチームでディスカッションをすることだった。朝は、その日のプランを共有し合い、診療後には「何がトラブルだったか、どうすれば良かったか」を必ず話し合った。

 チームには医療関係者だけではなく、通訳を兼ねた異文化仲介担当者や、ヘルスプロモーターといった職種のスタッフもいた。特に異文化仲介担当の存在は大きかった。彼らの主な役割は難民と医療チームの間に立つ通訳で、様々な言語を5、6人の中で揃えていた。彼らは難民に対して言語のサポートをするだけではなく、宗教や文化的背景を考慮した仲介を行い、常に難民側の目線を大事にしていた。彼らの仲介がなければ、一方的な押し付けとなっていたかもしれない。難民に寄り添う彼らの日常的な姿勢に西村はいつも頭が下がる思いだった。

 日課となっていたチーム内のディスカッションでは、少ない人数でいかに工夫をし、効率的に大勢の患者に対応するかを話し合った。例えば、診療車に患者が押し寄せてしまうことに対し、動線を作るとか、待ち合いのテントを張ったらどうかということも、このディスカッション内で出た案だ。

 また大勢の患者をトリアージする看護師には大きな負担がかかっているということも確認した。そこで、2人の医師のどちらかもトリアージに参加してはどうかなど、状況を改善するための話し合いは続いた。議論することはあれど、他人に仕事を押し付けたり、責めたりするスタッフは1人もいなかった。それどころか、疲れていそうなスタッフには気遣って休むように声を掛け合った。

 たったひとつの小さな医療チームが毎日クリニックで奮闘している姿は、キャンプ内で知れ渡っていった。ある朝、いつものようにキャンプ内に入ると、診療を待つ人びとの光景に異変があった。

「我さきに」と押し合う人びとの波はそこにはなく、きちんと列ができていた。西村たちが到着する前に、キャンプ内の住人たちが患者さんに声を掛け、きちんと並ばせてくれていたという。当初の混乱からすると考えられないことだった。難民の中から、通訳のボランティアを買って出る者も現れた。

 少しずつだが、状況が改善されていく実感を得た。

 ある日、ヘルスプロモーターたちが持ってきた話をチーム内で検討することになった。通常の医療活動は、医療施設に患者が足を運んでくる。つまり、患者がやってくるのを待つスタンスだ。一方で、ヘルスプロモーターの役割とは、こちらから住民にアプローチをかけていく。目的は疾病の予防・対策や、MSFの医療活動への認識を広めることだ。キャンプ内の住人とコミュニケーションをはかったヘルスプロモーターたちいわく、医療がキャンプ内に平等に行きわたっていないと、彼らは感じているという。そこで、より多くの人びとがアクセスしやすいように、クリニックの移動拠点を増やすという案が出て実行に移すことにした。住民たちがこの変化に混乱しないよう、事前の通達もしっかりと行った。 

 忙しさは相変わらずだったが、それでも、必要な医療を届けることに関して妥協をしないメンバーを前に、自分もこの一員であるという誇りが彼の支えになっていた。西村自身のビザの関係でギリシャでの活動期間は3ヶ月しかなかった。

 帰国日が目前に迫ってきたある日、キャンプ内を歩いていたら、ある男性が2歳くらいの子どもを抱きながら「ドクトル!(ドクター)」と西村に向かって手を振ってきた。シリアから来た家族だ。子どもは診療の優先順位を高くしていたため、多くの子ども診てきた。2人の姿から、あの時の子だ、とすぐに思い出した。

 男性の腕に抱えられたその男の子は、気管支炎を患いかなり具合が悪かった。無理もない。大人でさえあの航海はキツイはずなのだ。ぐったりとしていたあの時の子が、今ではしっかりと父親にしがみつき、はにかみながらこちらを見つめている。ギリシャ当局の監視下におかれ、自由を奪われている現状は変わらない。自分たちのこれからの運命などわからないなか、その父親は、愛おしそうに子どもを抱きしめ、西村が見えなくなるまでずっと手を振っていた。

 2023年12月、サモス島を去る日がきた。医療者として支え合ったフランス人医師のアミン。彼との別れは少し胸が痛んだ。同じ志を持つ同士だったからこそ、最後まで二人三脚のタッグを組むことができた。4000人あまりを2人の医師が担当するという状況でも、「そしたら1人2000人だね!」と笑い合って乗り切った。

 MSFへの参加を続けていれば、そのうちまた世界のどこかで会えるだろう。

サモス島からの電話

 帰国後、周囲から「ギリシャの人を診てきたの?」と聞かれることが何度かあった。無理もない。今回の派遣オファーが来た際、西村自身も欧州のギリシャで人道支援をすることへのイメージが湧かなかった。

 報道や記事のスポットが当たるのは、いつでも紛争や災害が起きている現場だ。逃れなくてはならない地と逃れた先の難民キャンプを結ぶ想像力が、私たち日本人には足りないのかもしれない。

 今回、西村が見てきたのは、自国の苦しみから逃れてきた人びとだった。彼らが命からがらたどり着く先々には、別の暴力や迫害が待ち受けていた。

 届かない医療を届けたい。そう思って現場に出てみたが、苦しみの連鎖はどこまでも続いていた。たったひとりでは、とてもその鎖は断てないことも知った。サモス島での3ヶ月は、限界の中でもがき、それでも真剣に医療に向き合う日々だった。とうとう薬が切れてしまい、心の中で謝りながら熱冷ましの薬をたったの1錠しかあげられなかったこともある。鼻の中を水で洗ってあげることしかできなかったことも。それなのに、「遠い国からきてくれてありがとう」「神のご加護を」と感謝してくれた患者たちのことは、忘れられない。

診療最終日にスタッフと(中央が西村。背景は難民キャンプ) MSF提供

 取材を終え、雑談をしていたとき、ふと訊いてみたいことが浮かんだ。

――西村先生が、サモス島から一度私に電話をしてきたことがありましたね。
「はい、あの時は患者さんへの対応が追い付かなくて本当に大変な時でした。あの混沌とした状況を誰かに聞いてもらいたかったんです」

――私、なんてこたえたんだっけな(笑)。でも、とにかく西村先生の話したいことを全部聞こうと思っていました。小一時間くらい話しましたね。 「話したことで大分楽になりました。こういう話を誰に話せるかと考えた時に、やはり白川さんならきっとたくさんの現場でジレンマを経験してきたと思うので、わかってもらえるかな、というのがありました」

 あの時、確かに電話の向こう側で西村は大変だと言っていた。ただ、すでに「現場の人間」として、乗り切ろうとしている様子もうかがえた。そんな彼が、初回派遣の場で奮闘したサモス島。そこにはまさに「私が知らない戦争」があった。戦争、紛争とは、血が流れる現場だけではない。西村の話を通じて見えてきた、戦争が及ぼす全く別の側面によって、戦争の恐ろしさは私の中でより立体的となっていった。

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◎筆者プロフィール
しらかわ・ゆうこ/日本やオーストラリアで看護師としての経験を積んだのち、2010年に国境なき医師団に参加。シリア、イラク、パレスチナ、イエメン、南スーダン、アフガニスタンなど紛争地を中心に活動している。主な著書に『紛争地の看護師』『紛争地のポートレート』など。2018年10月より、国境なき医師団日本事務局で海外派遣スタッフの採用を担当。