水谷竹秀「変わり果てた同級生を想う」 叫び リンちゃん殺害事件の遺族を追って #4
7年前、起きたこと
彼らは今、7年前に起きたあの日のことをどのように受け止めているのだろうか。
当時の記憶を胸に仕舞い込んだまま、成長し続けている子供たちがいる。それはリンちゃんと同じ教室で机を並べ、勉強をともにした同級生たちだ。まだ小学3年生だった彼らにとって、人間の死や人が殺されるという現実はどのように映り、そして理解されていったのか。もしくは理解されなかったのか。
リンちゃんが松戸市立六実第二小学校へ転校してきたのは、3年生の3学期からである。その時、家が近いという理由で、リンちゃんの面倒を見るよう先生から頼まれた生徒が、1人だけいた。
その生徒は、渡辺呂武さん(17歳)。後に詳述するが、渡辺さん一家は、ハオさんたちにとって最大の支援者である。私は事件発生から約1年後、呂武さんの父、広さん(52歳)に取材をした。以来、渡辺家とは現在まで交流を続けている。渡辺家で度々、夕食をご馳走になり、事件のその後について語り合ってきた。そこに呂武さんもいたのだが、まだ小さかったため、面と向かって事件について尋ねたことはなかった。
その彼も今や高校2年生になり、部活動でボクシングに打ちこむ日々だ。忙しい練習の合間を縫ってこの9月半ば、話を聞かせてもらった。
偶然にも、福島県二本松市にあるハオさんの温泉旅館「RBホテル」がオープンしてから3日後のことだ。アルファベットの「RB」は「Rebirth」(再生)の略で、リンちゃんに「もう一度生きて欲しい」という願いが込められている。役所から営業許可を取るための修理を重ね、予定よりは大幅に遅れたが、ようやく開業に漕ぎ着けたのだ。
「ハオさんの旅館、やっとオープンすることになりましたよ! 素泊まりで1泊6000円(税抜き)で、大きい部屋が7000円か8000円かどっちにしようか迷っていると言っていました。開業直前に宿泊料金をまだ決めかねているのってハオさんらしいですよね」
呂武さんへの取材のために訪れた渡辺家で、私はハオさんの近況を伝えた。ハオさんの姿が想像できたのか、広さんが苦笑しながら言った。
「近々、東北の方に行く用事があるから、ハオの旅館に行ってみようかな」
呂武さんへの取材は、広さんたち両親同席の上で行った。だが、質問を始めて間もなく、呂武さんは当時の記憶がかなり薄れていることが分かった。幼少期の出来事だからかもしれない。リンちゃんの面倒を見るように先生から頼まれたことはなんとなく覚えているが、それほど印象は強くないという。
「リンは背が高くて、親たちからは顔がかわいいと言われていた。でも恥ずかしがり屋で、クラスでは全然目立たなかった。ベトナム語を話してって言ったら、恥ずかしがって言ってくんなかった。友達が多いイメージはなかったんだけど、いじめとかもなかった」
リンちゃんは学校で勉強、運動ともに苦手だったという。
もう1人の女友達とリンちゃんの家で何度か遊んだ記憶はある。その時、ハオさんは不在で、2階にいたグエンさんとは特に話はしなかった。リンちゃんはよく渡辺家にも遊びに来ていて、夏には呂武さん、父の広さんと3人で幕張の海に行ったこともあった。
「リンが車の中で気持ち悪くなって、コンビニに寄る直前に吐いちゃったんです」
事件が起きたのはその半年後だった。
3月の修了式の日、リンちゃんが登校してこなかったため「教室では何かあったのかな、みたいな雰囲気にはなっていた」と、呂武さんは思い返す。学校が終わり、家族で手分けをして探し回った。その2日後、リンちゃんが遺体となって発見されたニュースがテレビで流れた。即座に、近くにいた母から両耳を手でふさがれた。
事件後で唯一、今も突き刺さったように記憶に残っている場面がある。それは葬儀で、棺に眠るリンちゃんの顔を見た時だ。同級生たちは皆、対面できなかったが、リンちゃんと家族ぐるみで交流のあった渡辺家は、特別に棺の前に案内された。呂武さんが回想する。
「見た瞬間にめっちゃ泣きました。リンは顔が膨れていて、青白い感じで、ニット帽をかぶっていました。お父さんが『もうリンじゃないよね』って言った気がします。顔が全然違うかったのを覚えています。あれは忘れない」
もうリンじゃない——。
リンちゃんの記憶自体が少なく、多くを語らなかった呂武さんでさえはっきり思い出せる、同級生の変わり果てた姿だった。
実はリンちゃんは、呂武さんに好意を寄せていたようだ。呂武さん自身も何となく感じていたと言い、具体的に尋ねると、
「いや……」とはにかんだ。
リンちゃんは学校で、どんな子供だったのだろうか。
私はかつて、リンちゃんのクラスを受け持っていた担任の女性教師に取材をしたことがある。彼女が語る言葉の端々からは、リンちゃんの当時の様子が目に浮かんできた。そして事件後は、同級生たちの心にある変化が生じていた。
初めての外国人生徒
それは事件発生からちょうど2年が経った2019年の春先だった。初めて取材を申し込んでからすでに半年が経っていた。理由は「言いたいことは他誌で話してしまい、また、そのことで学校から指導を受けた。取材をお受けするのは難しい」と断られてしまったためだ。その後、しばらくメールのやり取りを続け、ようやく女性教師が重い口を開いた。
女性教師は当時30代前半で、六実第二小学校ではリンちゃんが3年生の時の担任だった。事件は3年生の修了式の日に発生しているから、その直前までの1年間、リンちゃんとともに教室で過ごしていたということだ。3年生は1組と2組に分かれ、リンちゃんは2組にいた。生徒は男子が11人、女子が12人で、新学期が始まった当時、リンちゃんは女子の中では一番背が高かった。
担任教師は2組を受け持つ前、前学年の学年主任から簡単な引き継ぎを受けた。リンちゃんについては「日本語は話すことができるが、漢字と計算に問題がある」と伝えられていた。外国人の生徒は学校全体でもリンちゃんだけだったというから、担任教師は当初、不安を募らせていた。
「外国人の生徒を受け持ったのは初めてで、どういうところでつまずくのかの前情報もありませんでした。だから最初は心配でした」
ただ、リンちゃんの面倒を見てくれる渡辺呂武さんという男子生徒が1人いて、何か問題があれば彼に相談すればよいという話も聞いていたので、必ずしも懸念ばかりではなかった。
新学年が始まると、リンちゃんは毎朝、時刻ギリギリに登校してきた。集団登校という制度が学校にはなく、リンちゃんは友達と一緒でもなかったため、いつも1人で学校まで歩いて来た。午前8時20分に朝の会が始まるが、遅い時はその間に教室に入って来る。担当教師がハオさんの携帯電話に直接掛け、「もう家を出ましたか?」と確認する日もあった。出欠を取る時は、名前を呼ばれた生徒が両手を挙げ、ティッシュとハンカチを持っているかどうかを確認した。リンちゃんはどちらも必ず持参していた。
「男の子にハンカチを持ってこない子が多かったんです。ティッシュは机の中に入れっぱなしでも構いませんが、ハンカチは家に持ち帰って替えなきゃいけないんです」
そう話す担任教師が初めてリンちゃんの家を訪れたのは、新学期が始まって早々、「住居確認」と称する家庭訪問でのことだった。家の近くで道に迷っていたところ、路上で出くわしたリンちゃんの案内で辿りつけた。リンちゃんはそのまま近所のお婆さんと外で遊んでいたので、家の中にはハオさん、グエンさん、そして弟のトゥー君の3人がいた。リンちゃんの学校での様子や提出が必要な書類などについて簡単に説明したが、グエンさんの表情から、日本語が理解できていないことが分かった。
「グエンさんは話に加わるような感じで、言葉を発しようとしてくれるのですが、ハオさんの隣にいて微笑んでいるだけでした。たぶん私の話は一言も分からなかったと思います。でもすごくにこにこしながら聞いてくれました」
ハオさんは日本語をある程度理解できるが、普段は仕事に出掛けて夜にならないと帰宅しないため、宿題の面倒は必然的にグエンさんが見なければならない。しかし、日本語が理解できなければ助言のしようがないはずだ。案の定、リンちゃんは宿題を全くやってこなかった。特に漢字が苦手で、頻繁に実施されるミニテストでは、5問中1問しか正答できなかった。担任教師が振り返る。
「リンちゃんは日本語で話すのは大丈夫なんです。会話は日本人と同じようにできます。片言という感じではなく、結構すらすらしゃべっていました。お父さんよりできます。でもたとえば友達と喧嘩になると、リンちゃんは黙ってしまう。汚い言葉遣いを聞いたことがない。だから喧嘩がそれ以上激しくならず、すぐに終わるんです」
会話には問題なかったが、学校の勉強になると文字が読めず音読ができないため、授業中に生徒たちに音読させるのを止めた。
「順番に読むとかあるじゃないですか? リンちゃんは一文字ずつ追っている感じだったので、これは読めないなと。読ませると他の子も聞いているから恥さらしになっちゃう。周りの子は優しいんですけど、中には『あの子遅いから嫌だ』って思う子もいるかもしれない。だから音読させるのは早々と止めました」
法務省の在留外国人統計によると、日本に住む15歳未満の外国人の子供は、2023年12月時点で約28万2000人に上り、10年前から約10万人増えている。特にリンちゃん一家のように、家族で日本へ移住した場合、子供たちが直面している問題の1つが、日本語能力だ。大手電子部品メーカーの工場など外国人労働者が集まる自治体では、外国人の子供が多いため、特別クラスを設けて日本語の指導に当たっている小学校もある。これがたとえば、母子家庭の子供であれば環境はさらに厳しくなる。
私が過去に取材をしたフィリピン人母子家庭の場合、母親が夕方から朝方にかけてフィリピンパブへ働きに出掛けるため、小学生の息子が自宅マンションにひとりぼっちで過ごしていた。日中の仕事だと稼ぎが少なく、子育てのためにはより高給な夜の仕事に就かざるを得ないからだ。夕飯を用意して出勤するとはいえ、1人取り残された息子も宿題どころではない。このため、NPO法人が運営している日本語教室に週1回通っていた。が、教育環境として十分とは言えないだろう。文部科学省が2019年度に実施した調査では、約2万人の外国人の子供が就学していないか、就学が確認できていないという状況も明らかになっている。
日本語の問題は、漢字の読み書きや読解力を養う国語だけでなく、他の教科にも影響を及ぼす。リンちゃんは、掛け算の九九も下敷きを見ないと言えなかった。周りの生徒はそらで言えるから、明らかな差が出ていた。これらの勉強の遅れを取り戻すため、担任教師は夏の面談時、ハオさんに居残り勉強を提案した。
「どのぐらい意思の疎通が取れるのか分からなかったんですが、リンちゃんの学校の様子とかお勉強の状態とかを私が一方的にお話しする感じでした。ハオさんは『はい、はい』と言って肯くだけだったので、本当に理解しているのかなとは思ったのですが。その時に勉強の遅れを指摘し、家で日本語での宿題が難しかったら、放課後、教室に残って一時間補習することもできますよと伝えて、承諾を頂いたんです」
この面談は奏功したようだ。
ハオさんも「3年生の夏休みに入って仕事に行く前、毎朝10〜15分、リンちゃんと漢字の勉強をしていました」と私に語っている。
やればできる
居残り勉強は2学期から始まった。
漢字ドリルと計算ドリルのどちらをやりたいか尋ねると、リンちゃんは前者を選んだ。その日の授業が終わって静まり返った放課後の教室で、教師は自分の仕事を、リンちゃんは漢字を黙々と書いていた。
「これがすごく丁寧に綺麗な字で、かつしっかり書くんです。文字をマネするのはできるんだなって思って。子供たちの漢字の採点をする時に、みんなが間違える漢字をリンちゃんは正確に書けるんですよ。だからリンちゃんは絶対に覚えられる頭を持っている、きっと積み重ねればできるはずだと感じました。それにリンちゃんにやる気がないわけでもない。1時間休憩なく、黙々と書いているんですよ。よく集中力が続くなあと感心しました」
やればできる。
リンちゃんに抱いた担任教師の率直な感想だ。一方で、リンちゃんは自分から周りに話し掛けることができず、引っ込み思案。たとえば2人組を作る際、リンちゃんは自分から動けないために残されがちだった。それを見かねた友達がリンちゃんと組む場合がほとんどだったため、周囲の優しさが却ってリンちゃんの積極性を失わせるのではないかと危惧した。
「自分から動くことを3年生の間に身につけさせたいと思いました。毎回、ひとりぼっちになってから声を掛けられる状況を改善したかったんです。リンちゃんは積極性がないんですよ。話し掛けたら普通にしゃべってくれるし、いつもニコニコしているので。この子つまんないとか、この子嫌だなって思わせる子では全くない。でもこの控え目な性格がみんなからすれば、そのうち嫌がられるのではないかなと。だから周りの生徒にも、助けてあげるばかりじゃなく、きちんと教えてあげるのも友達の役目だよと伝えていました」
クラスでは毎月、生活アンケートが行われた。学校が楽しいか、勉強は理解できるか、先生に相談したいことがあるかなど質問が4項目に分かれており、リンちゃんは一度だけ、気になる回答をした。尋ねてみると、女子生徒からきつく当たられたと打ち明けてくれた。
「先生が今度そういう場面を見つけたら注意するし、先生にも相談するんだよってその場は終わったんです。その後のアンケートでは何ともなかったので、何とか解決したのかなと思ってはいたんですが。リンちゃんは明るい子ではあるんですけど、大人しくておっとりしているので、言われやすいかもですね」
リンちゃんは運動も苦手だった。ハオさんも「リンちゃんの足は遅かった」と苦笑いを浮かべていたが、5月に行われた運動会の徒競走はビリ。体育の授業ではクラスを団結させるために大縄飛びの練習が行われたが、リンちゃんは全く飛べなかった。タイミングが摑めずに縄に入ることができないのだ。そこで縄跳び実行委員会を作り、リンちゃんを含めてできない数人を中心に練習を開始した。飛べる子と飛べない子が2人ペアになり、手をつないで一緒に入るという試みだ。その時にリンちゃんとペアを組んだのが、前述の渡辺さんの息子、呂武さんだった。
「その男の子は昔で言うガキ大将みたいな感じで、正義感の強い子でした。ハラハラしながら見ていたら、『リンいくよ!』って声を掛けて2人で入ることができたんです。ちょっと感動しました。リンちゃんが引っかからずに飛べたんですよ! リンちゃんもその男の子を信頼しているから、引っ張られた時に動けるし、ジャンプのタイミングも合ったのではないかと」
ただ、高校2年生の呂武さんはこの「手柄話」を全く覚えていなかった。
リンちゃんは、徒競走に加えてマラソンもビリだったが、練習は一度も休まなかった。最後尾を走っても決して歩くことはせず、最後まで走り抜いたという。
「リンちゃんから『もうダメ』とか『できない』とか一切聞いたことがありません。普通は『疲れた』『もう嫌だ』って言うじゃないですか? リンちゃんは運動が苦手という意識があるにもかかわらず、自分はしっかり頑張っているという自己肯定感を持つことができる子なんです。えらいなあと思いました」
3年生のマラソン大会について、リンちゃんが綴った絵日記が残っている。タイトルは、「ぜったいにぬかしてやる」。特に後半部分にリンちゃんの負けず嫌いな性格がよく表れている。
漢字ドリルを1時間ぶっ通しでやり続ける集中力や最後まで諦めずにマラソンを走る抜く根性は、父親のハオさん譲りだと感じる。誹謗中傷を浴びても署名を集め続けたり、取材の際につたない日本語で押し通したりする姿勢と重なるからだ。
「リンちゃんは何でも一生懸命やっているイメージしかないです。最初のうちは、苦手なことが多くて、もしかしたらあれもできないこれもできないと卑屈になってしまうのではないかと、不安でした。かつ積極的なところがあるわけでもなく、クラスに居づらく感じさせてしまったら残念だなと思っていたんです。でもリンちゃん個人を見ると、言われたことはやるし、前向きな感じだし、卑屈になっているのを見たことはない。私が思っているより、学校生活で生きづらさは感じていないのかなって思いました」
1学期、2学期の授業参観では、ハオさん、グエンさんともに出席しなかったが、3学期の2月に行われた授業参観では、グエンさんが弟のトゥー君を抱っこしながら参加した。授業形式ではなく、1年間の総まとめとして、勉強や運動会、遠足などの行事を振り返り、劇にして保護者の前で発表した。
「その時にリンちゃんがお母さん見つけて、ベトナム語をペラペラと話し出したのを見てびっくりしたんですよ。流暢に日本語をしゃべっているリンちゃんしか見たことがなかったから」
そして3月の修了式を迎えた。リンちゃんはその日の朝、登校してこなかった。異変を察知した担任教師をはじめ学校側は前代未聞の事態に、緊急の対応を迫られた。
◎筆者プロフィール
みずたに・たけひで/1975年、三重県生まれ。上智大学外国語学部卒業。新聞記者やカメラマンを経てフリーに。2004〜2017年にフィリピンを拠点に活動し、現在は東京。2011年『日本を捨てた男たち』で開高健ノンフィクション賞を受賞。ほかに『だから、居場所が欲しかった。』『ルポ 国際ロマンス詐欺』など。