西村崇(内科医)×ギリシャ・サモス島 「苦しみの連鎖は一人では断てないけれど」紛争地の仕事 #1前編
捜索のタイムリミット
どこまでも続く雑木林に彼はいた。いったいどこに隠れているのだろう。捜索を開始してかれこれ数時間、拡声器を持つ腕が疲労してくる。
「私たちは国境なき医師団です!」
「あなたたちを助けるために来ました!」
木々の間に飲み込まれていく言葉たち。相手はこの山のどこかでじっと身を潜めながら聞いているに違いない。どうか私たちを信じ、姿を現してほしい。
ギリシャのサモス島には、命がぎゅうぎゅうに詰まった粗末なボートが1日に何隻も流れ着く。紛争、迫害、暴力、虐待から逃れ、逃れ続け、アフリカや中東からいくつもの国境を越えてきた難民や移民の人びとだ。連れ戻されるのではないか。投獄されるのではないか。彼らには、疑心と恐怖が染みついている。いったいどこまで逃げれば安全が手に入るのか。なかには上陸した途端、島民を目にして一目散に逃げてしまう人もいた。
車で1周3時間ほどのこの島は、エーゲ海の東部、トルコ沿岸に位置する。表の顔としては、ギリシャ本土や、近隣国からの人びとがバカンスに訪れる観光地だ。温暖な気候でスッキリした風が気持ち良い港の岸壁には、小型の帆船が何隻も停泊する。沿岸には青い空に映えるオレンジ色の屋根をもつ可愛らしいリゾートホテルや土産店が、幾重にも立ち並ぶ。
2023年10月、救急バッグを背負った西村崇ら国境なき医師団(MSF)のチームが連日歩き回っていたのは、観光客が出入りする港からは反対に位置する山間だった。ボートから上陸した人たちは、当局に捕まることを恐れ、山の中で身を隠すことが多い。酷暑や極寒の中、食料もないまま何日も藪の中で過ごす女性や子どももいる。MSFは、欧州を目指して命からがらこの島にたどり着いた人たちに、緊急医療を提供している。しかし、彼らを探し出すのは容易ではない。
それにしても今週だけで何隻が到着しただろう。世界はいったいどうなっているのだろうか。西村は、両肩に食い込むバッグの重心を変えようと何度も背負い直した。まずは先ほどまで身を隠していた相手の警戒心を解かなくてはならない。心も体も極限状態だろう。栄養不良や脱水など含め、あらゆる非常時が想定される。洋服が濡れていたら状況はなお悪い。水や食料、着替えを詰めた同僚たちのバッグを追いかけ、チームからはぐれないよう捜索を続けた。英語、アラビア語、その他の言語を交えて呼びかける。捜索のタイムリミットの日没が近づいてくる。観光客がサンセットディナーを楽しんでいる時刻だった。
私が知らない戦争の景色
例年以上の大型連休となったことで、世の中が浮き足立っていた2024年4月末、東京・早稲田にあるMSF日本事務局で、私はスーツケースと共に現れた西村医師を迎え入れた。
「すごく懐かしいです。ここは説明会を受けに一度だけ来たことがありました。まだ医師になって間もない後期研修時代です。あれから10年以上ですよ」
かつて看護師としてMSFの現場を飛び回っていた私は、いつしか自分が現場に行くのではなく、現場に行けるスタッフを増やしたいと考えるようになった。2018年からは日本事務局の職員となり、海外派遣スタッフの採用業務の担当を始めた。MSFに入りたいという目標を持つ人たちに対し、それを実現させるためのサポートをしたいという気持ちも大きかった。「選抜する」ではなく、「導くための採用」を心掛け、熱意ある志願者たちを採用しては、現場に送り出してきた。
2022年に応募をしてきた西村を担当したのも私だ。その時のことは今でもよく覚えている。コロナ禍ということもあって、採用面接はオンラインで行った。謙虚で誠実な西村の姿勢は、面接に加え、メールのやり取り、事務的な手続きなどからも窺えた。普段の患者に対する診療風景までもが目に浮かぶようだった。
今回、福岡在住の彼にはオンラインでの取材を申し入れたが、「白川さんには、きちんと対面でお会いして僕が見てきたことをお伝えしたい」という彼の希望を聞き入れることにした。半年前の記憶を辿りながら取材に応える西村は、私の知る優しい笑顔以外の表情も時折見せた。きっと厳しい現実を瞼に焼き付け、日本に帰ってきたのだろう。
それは今回、どうしても彼の取材をしたかった理由とも繋がっている。これまで私が派遣看護師として行ってきたのは、紛争地で血を流す人びとに対しての外科を中心とする医療活動だった。
MSFは75の国と地域で、500あまりのプロジェクトを行う。外科以外にも、感染症や栄養失調、性暴力など多岐にわたった。国家の崩壊や政情不安によって苦しむ人びとの報告を受けるたび、込み上げる思いがあった。
私は戦争のことをまだまだ知らない。
治療費代わりに野菜が置かれ
まず、医師としての西村の来歴を知りたかった。
佐賀県嬉野市にある西村医院。彼は物心ついた時から、診療をする父の背中を見て育ってきたという。父から「往診に行くよ」と声がかかると、子どもながらにワクワクしてついていく。訪問先では横たわる患者に手を当てる父の横でおとなしくその様子を見守っていた。「西村医院のおぼっちゃん」として、院長である父のそばに幼い彼がいることは、地元の人びとにとっても、ごく自然なことだった。
西村医院は、軍医だった西村の祖父が戦後に開業し、その当時から「医療が届きにくい人」を常に意識していた。西村の父にもそれは受け継がれた。西村の自宅の勝手口には、治療費の代わりなのか、よく野菜が置かれていたという。
医師となった西村は地元を離れ、東京で研修をスタートさせた。配属先の各病院やクリニックで診療をしながら、やはり医療が届きにくい人びとはどこかしらに必ず存在するということを思い知った。例えば、東京都内ではホームレスや経済的困窮者、HIV感染者などである。受診できない、もしくは受診をためらう人びとの存在に目が留まった。また、ハンセン病の療養施設で診療をする機会もあった。かつて偏見や差別で隔離生活を余儀なくされた人たちが今もなおそこで暮らしていた。
2016年、西村が東京での研修を終え福岡で医師をしていたころの話だ。勤め先のクリニックの看護師の一人が、偶然にも同郷だった。彼女の祖母が、ある医師によって救われたという話を聞き、それが実は西村の祖父のことだったと知り驚いた。彼女が少女だった頃、祖母が急に出血をして苦しみだし、でもお盆ということでどの医療機関にも連絡がつかなかった。家族は、どこかに診てくれる医師はいないかと一生懸命探した。その時、かかりつけではないにもかかわらず、連絡を受けた西村の祖父がすぐに駆け付け、応急対応をしてくれたのだという。その看護師は今でも西村の祖父に感謝をしていると言った。
「会ったことのないおじいちゃんですが、医師として本当に大事なことを教わった気がします」
西村の祖父は、往診中に事故に遭い亡くなった。最期まで医療が必要な患者さんに寄り添い続けていたという祖父のお葬式には、たくさんの地元住民が駆け付けたという。
医師としての経験を重ねるうちに、西村は、ある思いに行き着く。公衆衛生学を学びたい――。患者と一対一で向き合う医療を大切にしたいからこそ、全体を見る視点が必要だった。たとえ、どんな高度な医療センターであっても医療には限界がある。栄養士や理学療法士など、医師以外の職種をどのように取り入れ、どう活かせば、人びとの命や健康に一番効果があるのか。予防医療も含め、彼の関心はそうしたことに向いていった。いずれは佐賀の実家を継ぐだろう。その前に一人の医師として、自らの可能性を広げたかった。2018年末、彼はオーストラリアに渡った。
1年半にわたって公衆衛生学を学ぶなかで、「医療の公平性」という言葉を幾度も耳にしたという。医療が届きにくい人びとがいる場所がある。そこにこそ自分は医師としての使命を尽くしたい。MSFへの想いが強くなっていくのは、彼にとって医師を目指すのと同じくらいに自然なことだった。
2020年にオーストラリアから帰国したあと、西村は福岡の訪問診療クリニックに勤めていた。すでにMSFの採用面接を通り、出発前研修も終えていた西村に、実際に海外派遣のオファーが届いたのは2023年夏のことだった。オファーに心躍らせる自分がいた。しかし一方で、ここも人手不足に悩む地域だ。西村が抜けると地域医療の均衡が崩れる。悩む西村の背中を押してくれたのはクリニックの院長やスタッフたちだった。海外での人道支援活動は、本人の意志や希望だけで成り立つものではない。
「こちらは何とかするから、西村先生が大切にしていることを全うしてきてください」
みなの温かい言葉には感謝しかなかった。
派遣先はアフリカか、はたまた中東か。ところが、西村に提示された行き先は、思いもよらぬ地だった。欧州のギリシャ――そこから緊急医療を望む人道危機の姿はイメージしづらかった。
地中海を渡る人びと
中東で広まった「アラブの春」がシリアにも飛び火し、体制打破の民主化運動から、周辺国や超大国も巻き込んだ泥沼の代理戦争に発展したのは2010年代前半のことである。その混乱に乗じてIS(イスラム国)も勢力を伸ばし、シリアは世界で最も危険な地となった。
そのとき私は、シリア国内でMSFの看護師として活動していた。医療の前線に立って、血を流す人びとに医療を提供することに精いっぱいだったが、その裏では別の事態が起こっていた。
まずは大量のシリア人が国外に避難するため、隣国のトルコ国境を越えていった。やがてトルコでシリア人の数が膨れ上がっていく。仕事も家もない。すぐ隣の故郷にも帰れない。シリア人たちがより良い暮らしを求め、密航業者の手引きで欧州を目指すというケースが相次いだ。
海への旅路に出ざるを得なかったのはシリア人だけではなかった。例えば武装勢力との衝突激化から逃れてきたソマリア人、弾圧を受け居場所を立ち退かざるを得なかったパレスチナ人、民族の違いで迫害を受けてきたアフガニスタン人、暴力・虐待から逃れてきたリビア人など、世界各地の人びとが危険な方法で地中海を渡ることを選んだ。
粗末なボートに詰めこまれた命はあっけなく海にこぼれ落ちた。無事に陸地にたどり着いたとしても待っているのは希望ではなかった。欧州諸国は、海を越えてやってくる人びとが増加するや援助から手を引き、それどころか救難活動への反対を表明し始めた。欧州諸国同士での責任の押し付け合いも始まった。拘束、虐待、収容所への収監、強制送還、現地の市民たちからの反感……。それでも生きるか死ぬかの航海に乗り出す人びとが絶えなかった。それ以外に、苦境から抜け出す方法はないからだ。中東やアフリカの戦火から離れても、彼らは悲劇のさなかにいた。
MSFは、2015年に地中海での海難捜索救助活動を開始し、海上で漂流する多くの人びとの命を救ってきた。さらにボートの行き着く先、ギリシャの各地で医療援助にあたるチームも配備した。その一つ、サモス島を担当したのが西村たちのチームだ。
サモス島での西村たちの役割は、漂着したボートへの対処だけではなかった。漂着者が収容されるキャンプのなかで、MSFは小型バスを改造したクリニックで移動診療を行っていた。端から端まで歩くと15分程度というキャンプ地に、西村が到着した2023年9月の時点で約4000人が収容されていた。キャンプ内で医療活動を行っていたのはMSFのみ。医療メンバーは看護師、助産師、心理士を入れ、だいたい5~6人だった。うち医師は西村と、フランス人であるアミンの2人。アミンも西村と同じく初回派遣者である。その他、通訳やヘルスプロモーターたちも入った。
キャンプのロケーションは、観光客には目に触れることのない山の中で、まるで犯罪者を閉じ込めているかのように周囲から孤立していた。有刺鉄線が張られた無機質なキャンプは、人間に対しての思いやりを感じさせない。
MSFの移動診療クリニックには連日多くの人びとが訪れた。対象は新生児から老人まで幅広く、症例は多岐にわたった。西村がこのチームに選ばれたのは、ここに理由がある。感染症、母子保健、急性疾患、慢性疾患など、総合的に何でも診ることのできる医師が求められたのだ。西村が日本で培ってきたスキルがまさに役に立った。
◎筆者プロフィール
しらかわ・ゆうこ/日本やオーストラリアで看護師としての経験を積んだのち、2010年に国境なき医師団に参加。シリア、イラク、パレスチナ、イエメン、南スーダン、アフガニスタンなど紛争地を中心に活動している。主な著書に『紛争地の看護師』『紛争地のポートレート』など。2018年10月より、国境なき医師団日本事務局で海外派遣スタッフの採用を担当。