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水谷竹秀「旅館をはじめる」 叫び リンちゃん殺害事件の遺族を追って #2

 千葉県松戸市に住む小学3年生のレェ・ティ・ニャット・リンちゃん(当時9歳)が遺体となって発見されたのは、2017年3月26日のことです。それから7年。本連載では、東南アジア地域の在留邦人や在日外国人の問題、そして事件や事故の被害者遺族に取材を重ねてきた水谷竹秀氏が、父親レエ・アイン・ハオ氏の闘いを同時進行的にレポートします。(#1はこちらから)

賠償金が支払われず

 古びた事務所の奥に、ポストカードサイズの写真が立て掛けられていた。 

 そこには当時、5歳のリンちゃんが紺色の帽子をかぶり、上目遣いに微笑む姿が写っている。父のハオさん、母のグエンさんと一緒に東京タワーを訪れた時の一枚だ。遺影の周りには小さな仏像や香炉が並び、簡易祭壇のようになっている。


5歳時のリンちゃん。背後には東京タワーが見える

 6月半ばのその日、私は福島県二本松市のたけ温泉にいた。閉館された温泉旅館で、額に汗を浮かべながら地道な作業を続けていた。タイルカーペットの寸法を測り、カッターで切れ込みを入れて大きさを調整し、床に1枚ずつ並べていく。距離にして20メートルはあろうかという廊下に、何十枚ものタイルカーペットを敷き詰めた。

 ハオさんたちは1年前から、生活の拠点を千葉県松戸市から北に300キロ近く離れたこの旅館へ移した。営業開始に向け、旅館の内装や客室、温泉設備の修理などの準備を進めていた。この日は、保健所の担当者が来館し、営業の可否を判断する点検が控えていただけに、ハオさんは少しピリピリしていた。私は手伝いのためにひたすらタイル敷きの作業を続け、担当者が旅館に到着するやいなや、ハオさんは館内を案内した。しばらくすると、ハオさんが私の前にやってきた。

「点検が終わりました。少し直して来週、許可が出ます」

 私が「おめでとう!」と伝えると、彼は顔をニカッとさせた。

ハオさんが開業を進める旅館。ベトナム料理店としては既にオープンしている

 ハオさんが東北で旅館の経営に乗り出したのには理由がある。

 それは、犯人である澁谷恭正(53)=無期懲役確定で服役中=が松戸市に所有する、4階建てマンションをハオさんが差し押さえようとしたことに始まる。

 ハオさんは事件発生から約3年後の2020年1月、澁谷を相手取って約7000万円の損賠賠償の支払いを求める民事裁判を起こした。先に行われた刑事裁判で、ハオさんは澁谷への死刑を望んだが、一審、二審とも無期懲役だった。検察は最高裁への上告を断念し、無期懲役が確定する。不服に思ったハオさんは、民事裁判に訴えた。

 民事では請求通りの判決を勝ち取った。しかし、澁谷から賠償金が一向に支払われないため、ハオさんは澁谷のマンションを競売にかける方法に着手した。話はこれで終わらない。管轄の千葉地裁松戸支部から2年ほど前、マンションの評価額が低いため、競売にかけるには保証金約4000万円を支払わなければならないと告げられてしまう。

 大金が必要になったのはこの時からだ。何としても澁谷のマンションを差し押さえたいハオさんは、借金をした。母国にある自分と親族の家々を担保にベトナムの銀行から3000万円を借りた。それでも保証金額に満たなかったため、温泉旅館ビジネスを思いついたというのだ。

なぜ福島か

 ハオさんは来日以来、IT関係の仕事に従事していたため、経営者としての経験は乏しい。ゆえにかなり無謀に感じられるが、そこにはこんな思いもあった。

「東日本大震災の記事を見て、今も福島に帰れない人がいると知りました。観光地の旅館やお店を閉店する人もいて、とても不公平と感じた。自分のことに似ている。私も悪いことしていないのに、家族が残忍な目に遭った。福島の人と同じ気持ちになり、何かしたいと思ったんですね」

 ベトナムの旅行会社の多くは、福島県北塩原村にある観光地、五色沼を日本の観光ツアーに組み込んでいた。その付近に位置する二本松、会津若松両市に、震災の影響で閉業した温泉旅館をそれぞれ見つけ、保証金のために借りたお金を注ぎ込んでオーナーになった。営業するに当たっては旅館の修繕や改修などが必要で、そのための資材を購入し、ベトナム人の知人を雇って作業を進めてきた。

 しかし、改修費のほかにも営業許可証の取得に必要な諸経費が発生し、それを捻出するための資金繰りが難航した。ベトナムの家を担保にした借金3000万円は、親族や知人たちへの借金も重なって7000万円にまで膨れ上がった。もはや「自転車操業」である。

 保証金4000万円のために3000万円を借り入れ、本来であれば残り1000万円が用意できれば差し押さえは実現したはずだ。しかし、温泉旅館の経営という未知の領域に足を踏み入れてしまい、取り返しのつかない事態を招いた。「見通しがあまい」と言ってしまえばそれまでだが、元を正せば、賠償金の未払いが放置される日本の司法制度にも問題があった。

賠償金支払いは13・3%

 ハオさんのケースは、日本の被害者遺族の多くが直面している現実だ。

 遺族の中には、ハオさんのように刑事裁判と並行し、犯人に損害賠償を請求する民事裁判を起こす人が少なくない。彼らが求めているのはお金ではなく、犯人からの誠意や謝罪、あるいは償いだ。ところが賠償判決を勝ち取っても、被告である犯人から「支払い能力がない」と言われてしまえば、裁判所は支払いに応じるように働きかけをしない。その規定がないためだ。原告は判決の強制執行を申し立てることも可能だが、結局は犯人に財産がなければ回収できない。

 日本弁護士連合会が2018年に実施した調査によると、被害者に支払われた金額は、裁判などで認められた賠償額のうち、殺人事件で平均13・3%だった。

 ハオさんのように全く支払われないケースも多い。遺族からしてみれば、判決文はただの「紙切れ」同然で、不公平だと感じるだろう。犯人側に不動産などの財産があるなら、ハオさんのように差し押さえでもしなければ、気持ちの収まりがつかないはずだ。

 それが転じて乗り出し出してしまったのが温泉旅館ビジネスというわけだ。温泉のない母国の同胞たちに日本の自然や文化を体験してもらいたい、というハオさんの理屈はわかるが、それにしても滅茶苦茶である。いまさら後戻りもできない。借金の返済にも追われていたため、できるだけ早く営業に漕ぎ着けたかった。修繕を進めつつ、保健所や消防署による点検はこれまで何度も受けてきたが、いずれも営業許可が下りる水準には至らなかった。

 ハオさんの中で焦燥感が募っていた。

 そして当初の予定から大幅に遅れてようやく、二本松の旅館の営業への見通しが立ったのだ。

 保健所の担当者から「営業許可」を伝えられたハオさんは、嬉しさのあまり笑みをこぼした。思い返せば、ハオさんが私に見せる笑顔ーーそれを初めての当たりにしたのは、2年ほど前だろうか。

 事件直後のハオさんは、まるで「笑う」という感情を忘れてしまったかのように、いつも凍りついた表情を浮かべ、近寄りがたい雰囲気を漂わせていた。言葉の壁といった問題もあるが、とにかく寡黙だった。

 その当時の記憶について振り返ってみたい。

防犯カメラだらけの民家

 玄関のひさしの下に、黒い円柱形の物体が2つ、向き合うようにして取り付けられている。ほかの場所にも同じ形状の物体が複数確認できた。築年数が相当経過しているとみられる古びた2階建て民家の前に立つと、まず目に付くのはこの防犯カメラだ。辺りは閑静な住宅地で、ほかに防犯カメラを設置している家など見当たらない。

防犯カメラが設置された松戸市のハオさん宅

 歩道に面した黒いカーテンゲートは鎖で閉ざされ、奥のスペースには自転車4台とベビーカー、ピンクの三輪車が無造作に置かれている。その上に突き出たひさしには、葡萄の葉が生い茂っていた。家の雨戸はすべて閉め切られ、人の気配は全く感じられない。

 ハオさんの自宅は、東武野田線のむつ駅から直線距離にして南に300メートルほど離れていた。事件発生から約5ヶ月後の2017年8月末、私は初めて六実駅に降り立った。改札口からは、澁谷が所有する4階建てマンションが見えた。

 空を見上げると、雲が東から西に流れていた。夏の終わりだというのに肌寒く、時折、小雨が頬に当たる日だった。ビュービューと音を立てながら風も吹き付けていた。ハオさんの家の周囲を歩く。近くに広がる畑のほうから、犬を連れた年配の女性がこちらへ向かって来るのがわかった。声を掛けてみると、隣人だった。

「お父さんたちは今、ベトナムに帰っているみたいですね。お仲間の人が時々来て、草取りやお掃除したりとかしてます」

 この女性によると、ハオさんはあまり近所付き合いをしていなかったようだ。

「この辺りは皆、ご近所さん同士なのでおうちの事情がわかるじゃないですか? でもここだけはほら、お付き合いがないからよく知りません。奧さんはほとんど日本語しゃべれないんじゃないかな。私は話したことがありません。お父さんもどこに勤めているのか、何をしているのかも知らないけど、朝お勤めに行く姿を何回か見掛けたことはあります」

 事件後、この女性は家の外壁をペンキで塗り替えていたハオさんの姿を目にしたこともあった。玄関先の小さな庭では、野菜や果物を植えていたという。家を取り囲むネットフェンスには、握り拳ぐらいのメロンがぶら下がり、風に揺れていた。

「ご主人からは最低限の挨拶はありましたけど、奧さんは全然でした。一家が引っ越して来たばかりのころ、私が奧さんに何か声を掛けたんだよね。そしたら手を振って、『わからない』という仕草をしたんです。側にいたリンちゃんが、『ママはわからないんだ』と言っていたので、あんまり日本語が話せないんだなと察しました」

 夫妻との交流はほとんどなかったが、リンちゃんとはよく挨拶を交わしていたと、女性は懐かしそうに振り返った。

「リンちゃんは夏休みなんかになると友達を連れてきて、庭で遊んでいたね。可愛い子だったよ。日本語も普通の小学生並にできたからねえ。『遊んでんの?』とか『かわいいお洋服ね』と声を掛けていました。とっても素直で、本当に可愛い子だったんですけどね……」

 少し前までは、家中に取り付けられているこの防犯カメラが、夜になるとセンサーライトを放っていた。住宅街一帯が暗闇に包まれる中、ハオさんの家だけが鋭く光っていたというのだ。

 私がハオさん一家について生の情報に触れたのは、この時が初めてだった。

死刑の記入フォーム

 後にわかったことだが、この不在時、ハオさんはベトナムで澁谷に死刑を求める署名活動をしていた。場所は妻、グエンさんの故郷であるハイフォン市。ベトナム北部最大の港湾都市だ。その中心部の街頭に立ったハオさんたち遺族は、署名用紙を手に、道行く人々に声を掛けていた。

 署名活動がスタートしたのはその2ヶ月前。つまり、事件発生から3ヶ月後の2017年6月だ。ハオさんはフェイスブックのアカウントを開設して、日本語で告知した。プロフィールには、黒いスーツ姿のハオさんが、微笑むリンちゃんの遺影を手にした写真が掲載されている。リンちゃんと行った思い出の地の写真も並ぶ。上野動物園、東京ディズニーランド、海水浴場、自宅近くの公園、お花畑……。ピースサインをしているリンちゃんは、いずれも嬉しそうな表情を浮かべている。それにも増してハオさんは、自然な笑みをたたえていた。

 そのハオさんが死刑を求める理由−−−−。

 最初の投稿は、こんな書き出しで始まっている。

 私はレェ アイン ハオです。レェ ティ ニャット リンの父です。
 容疑者澁谷泰正(ママ)に対するわいせつ略取誘拐、強制わいせつ致死、殺人、遺体遺棄事件は判決の死刑にしたいです。
 澁谷泰正(ママ)が死刑しないとリンちゃんが天国へ行けないです。
 皆さん、リンちゃんが死ぬ前にどれだけ辛い思いをしたのか、想像をしてみてください。
 もし、あの叫ぶような泣き声、絶望にありながらも助けを求めるあの声を感じることができるならば。死刑の書名簿(ママ)に記入してくれませんか。
 ご協力お願いします。

 これに続き、「死刑の記入フォーム」と題する署名用紙がダウンロードできるようになっている。用紙1枚につき最大12人までが署名可能で、日本国内ならハオさん宅に郵送する。署名はフェイスブックを通じてベトナム語でも呼び掛けられ、ベトナムではハオさんの親族が窓口になっていた。用紙の右上に掲載された澁谷の写真は、紺色のパーカーのようなものを身にまとい、黒縁眼鏡を掛け、口を少し膨れさせている。署名を求める文面は、「澁谷恭正」の名前を繰り返し、その犯行を徹底的に糾弾していた。

 人間の人格を持たない澁谷恭正は父母会の会長という地位、千葉県における子供・児童を守る団体の会員である地位を悪用し、短時間のうち、リンちゃんを誘拐し、強制わいせつ行為をおこない、そしてリンちゃんを殺害し、遺体を遺棄するという残虐な行為を行いました。(中略)澁谷恭正に更生の余地はありません。澁谷恭正が無期懲役の刑にのみ服するのであれば、刑務所を出所する日が訪れます。澁谷恭正はさらに別の子供を誘拐し、殺害する機会を得ます。以下略(原文ママ)

 その年の暮れまでに両国で集まった署名はベトナム人約3万人、日本人約1000人と、同胞からの支持が圧倒的に多かった。ベトナムからも送られてきた署名用紙を手にしたハオさんは、松の内が明けた2018年1月半ば、千葉地方検察庁に届け出た。その際、受理した職員に「公判はいつから始まりますか?」と尋ねると、「わかりません」とだけ告げられ、つっけんどんな対応に感じた。

 いつまで待てば裁判は始まるのか。

 フェイスブックの呼び掛けだけでは伝わりにくいのだろう。そう考えたハオさんは、日本でも街頭に出ると決めた。まずは柏駅前で、続いて上野駅、千葉駅とそれぞれ1週間、朝から晩まで寒さに耐えながら立ち続けた。リンちゃんの遺影が何枚も貼り付けられたボードを首からぶら下げ、通りすがりの人々に頭を下げた。

 この模様は、ベトナムの国営放送「ベトナムテレビ」のニュース番組で報道され、同胞の署名者が爆発的に増えた。2カ月後の同年4月に提出した第2期では、ベトナム人の署名者が約113万人と、100万人を突破。しかし、日本人は依然として約6万8000人にとどまっていた。ハオさんは、日本人による署名も望んでいた。

「日本の法律で、日本の裁判で(公判を)行いますから、日本人の署名欲しいです。日本人でもリンちゃんを殺害した犯人を許せないと伝えて欲しいです」

 日本で起きた殺人事件の被害者遺族が、裁判で加害者に対して死刑を望むケースは多いが、署名活動まで行うのは数えるほどだ。ハオさんの母国では、16歳以下の子供を殺した場合には死刑が適用される事例が多い。そうした事情も踏まえての署名活動だった。

 うちの娘は二度とこの世に戻ってこないのに、なぜ加害者はのうのうと生きていけるのかーー。ハオさんは何度も憤った。

ぎこちない質疑応答

 ハオさんに初めて会ったのは、一審で行われた千葉地裁での初公判を2週間後に控えた、2018年5月半ばのことだった。

 その日の午前、ハオさん宅には報道関係者が続々とやって来て、祭壇がある六畳の和室におよそ20人が集まるという過密状態になる。黒いジャケットにグレーのスラックス姿のハオさんが焼香を済ませ、床に座り込んだ。その前に、記者たちのICレコーダーが並んだ。まずは初公判を迎えるに当たっての心境について、質問が飛んだ。

「本当に初公判まで長すぎる。今でも待っているしかない気持ちです。1年以上ずっと待っている。それ以外に何もできない」

著者と初めて会った頃のハオさん

 ハオさんは沈痛な面持ちで語り始めた。

「リンちゃんの姿が行方不明になった時から今日まで、リンちゃんのことをいつも思い出しています。リンちゃんを助けることできなかったんです。とってもとってもつらい」

 逮捕以降、澁谷が黙秘を続けているため、裁判の行方には相当な不安を抱いているようだった。

「澁谷恭正被告が犯人かどうか本当に分からないです。私はとっても心配です。本当に裁判で何が起こるのか想定できないし、また澁谷被告が何か計画とか、自分がやっていないことを証明できるようにやるんじゃないかなと考えます」

 取材が始まってすぐに気になったのは、ハオさんの日本語力だ。最初の質問こそきちんとした日本語で答えているが、質問を重ねるごとに理解しづらい部分が増えていった。それでは話の主旨がなんとなくしか伝わらないのだ。ところが報道陣からの聞き返しはなく、その場の空気を乱したくなかった私も黙って耳を傾けたまま、質疑応答はぎこちなく進んだ。

「今は検察、警察、裁判員の方にお願いすることしかないです。ちゃんと真実を証明してほしいです。リンちゃんが死ぬ前に何があったのか知りたい。それをわかった上で、リンちゃんを殺害した犯人に対して必ず処罰できるようにしたいです」

 澁谷に対して言いたいことを尋ねられても、ハオさんは淡々と語ってはいた。怒りを押し殺しているようにも見えた。

「澁谷被告は否認と言ったんだから、自分がやってないと言ったんだから、私の家族やリンちゃんに対して謝罪のこと必要じゃないかな。本当に自分のやったことだったら、澁谷被告は一般の人間ではないと思う。この世界にいないほうがいいと思います。だからできるだけ証明して、極刑の判決を出してほしい」

 ハオさんはITのシステムエンジニアとして都内で働いていたが、事件発生以来、休職している。その間、時間を注いだ署名活動について、こう述べる。

「自分の命もいらないぐらいの気持ちで、駅前に立ったんです。自分の日本語も下手で、皆さんわからないみたいで、やりたくないけどやったんですね」

 ネットでは賛否両論の声が上がった。中には署名活動に反発する意見から、脅迫めいた投稿や誹謗中傷までがSNSを通じて送りつけられたという。

「署名活動には賛成もいるし反対もいる。人間として色々な方がいるからしょうがない。自分の家族にも、なんか、危険なことも感じるんですよ。今まで皆さんに話しなかったけど、ネットで私に『殺したい』のコメントとか、私の家族に『殺す』のコメントもあるし、色々と悪口もあるんですよ」

 報道陣による取材は2時間ほどで終わった。

 その後、私は一人でハオさん宅に残った。ところがいざ一対一で向き合ってみると、報道陣がいた時とは明らかに態度が変わり始めた。

*写真は筆者撮影、もしくはハオさん提供。
(次回は8月19日の公開を予定しています)

◎筆者プロフィール
みずたに・たけひで/1975年、三重県生まれ。上智大学外国語学部卒業。新聞記者やカメラマンを経てフリーに。2004〜2017年にフィリピンを拠点に活動し、現在は東京。2011年『日本を捨てた男たち』で開高健ノンフィクション賞を受賞。ほかに『だから、居場所が欲しかった。』『ルポ 国際ロマンス詐欺』など。